市民と議員の条例づくり交流会議
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◆全体会:第ニ部「変える、変わる、変えられる―自治法改正の評価と今後の議会改革」
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コメント「地方議会はどこへ」
◆青山彰久(読売新聞社解説部次長)
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■問われる議会のレーゾンデートル
私は議員でも学者でもありませんので、今日は、世の中から地方議会がどう見られているかという切り口から少々辛口の話しをしようと考えていました。しかし、大森先生の切り刻むような厳しい報告の後では、何を言っても甘く聞こえるかも知れません。そこまでおっしゃるのかと驚きましたが、先生の基調報告は、議会のレーゾンデートルを徹底的に考えよ、というご指摘ではないかと受け止めました。
私は、長洲県政末期の神奈川県議会、横路道政末期の北海道議会を新聞社の地方支局から見てきた経験を持っています。どちらも社会党少数与党で、大変な議会運営をしていましたが、そこで地方議会の取材が大好きになりました。理屈を抜きにしたところで、人々の欲望や思惑がどちらに転ぶのか。見たくもない現実を直視するのが、我々の仕事の原理でもありますが、心の中では軽蔑しつつも、私は役所の取材などより地方議会の取材が大好きでした。
革新自治体後の1980年以降の地方自治は、各党相乗りが相次ぐなど、地方政治にイデオロギーは無いほうが良いという時代が長く続いてきました。いまだにそうした議論は続いているように思います。しかし、これから長期的なスパンで見ていった場合、私は、地方自治は、政治性をどんどん強めねばならないと思っています。
端的な例として、いまはどの市町村・都道府県も必死になって行財政改革に取り組み、ばんばん無駄を切り捨てている。90年代後半はたしかに無駄があまりに多かったため、そうした取り組みもたしかに必要だったのですが、最近、それは役所の内部でしか完結しない論理ではないかと思い始めました。例えば、10億円の事業が時代に見合わなくなったから切るとなった場合、その10億円はそっくりそのまま財政の帳尻合わせに回されています。しかし、そのことを人々はどう思うのでしょうか。公共サービスとは何かと考える機会もないままに、ただただ帳尻あわせに走る地方自治体の姿を、住民は半ば「勝手にやれば?」と思って見ているのではないか。小さな町村ほど交付税削減の影響を受け、必死になって事業を切っていますが、この時代に必要な公共サービスのイメージを描くことをせずに、帳尻合わせを専ら優先しているように思える。本当の行財政改革とは、時代に合わなくなった10億円を、時代が必要とするサービスの財源へと回すことのはずです。10億円すべては無理かも知れないが、せめて3〜4億円は、どのようなサービスを人々が必要とするかを見極めた上でそちらに回すべきです。それをしていないことが、議会のレーゾンデートルが問われる理由の一つです。
どのような公共サービスが必要とされているかの判断は、まさに政治判断であり、世の中や社会をどう見るかにかかっています。人々がどこまで自立しようとしているか、そのための連帯をどう設計するかの判断、これこそがまさに政治判断だと思うのですが、それがほとんどなされぬままに地域が崩壊しているような気がします。機関委任事務が廃止され、これからますます補助金が一般財源化される時代にあって、公金を何に使うかは、まさに政治が要求される。全体状況として地方分権時代とは、政治化が進む時代だと思うのです。そうした時に、違う意見・立場の人々が徹底議論をした上で決定することこそが、議会のフォーラム機能でしょう。地方議会がどこへ向かい、そのレーゾンデートルとは何かといったとき、私がイメージするのはまさにそういうことです。
■人びとは議会を見放そうとしている
私には広島県の山間地域に友人がおり、何かあるとよくそこへ出向いて話を聞いたりするのですが、とりわけそうした小さな町村のまちづくりのグループと話をしていて気になるのが、グループの中に学校の教師が一人も入っていないということです。これだけ多くの人が地域を何とかしようと議論をしている中に、教師がまったく出てこない。もう一つは、彼らのワーディングである「行政」という言葉です。その文脈とは、「なんとも意にならぬもの」というものですが、しかし地方政府や自治体というのは、本来われわれの信託でできているはずのものです。そしてそこには議会とか議員といった言葉が一つも出てきません。そうしたイメージを前提に端的に言うならば、人びとは議会を見放そうとしているのではないかということです。
ここ1カ月の間に、ニュースでは夕張ショックが報道されました。標準財政規模が45億で、返さなければならないお金は605億。つまり、この町はどうがんばっても40〜50年、場合によって60年は再建にかかる。そして財政再建団体となったことで、この町からは半世紀の間自治が消えるのです。そのくらい恐ろしいことを彼らはやってしまった。
夕張市の問題は一見特殊なように見えて、原因を一つひとつ分析すると、多かれ少なかれどの自治体にも当てはまることばかりです。補助金をもらい、東京の銀行に投資してもらってやればいい、という外来型地域開発ばかりをして、地域の資源を大切にするような内発型発展に目を向けようとしなかった。たしかにかつて産炭地だったということがそもそもの大前提ではありますし、市長が6期24年もやってきたことの弊害もあるでしょう。道庁が分権改革を悪く解釈したせいもある。北海道では昔から道庁が市町村を強く支配してきたため、分権改革後の反動も強く、市町村と都道府県が対等になった後には、夕張の実態を知ろうともせず、「自治」だからとの名目でアドバイスすらしなかった。財政破綻とは、最終的な自治の敗北です。北海道は夕張に対し、本当に自治をなくしていいのかと、本気で助言すべきだったのにそうしてこなかった。
中でもとりわけ大きいのが、市議会の問題です。彼らはいったい何をしていたのだろうか。決算カードを見ると一目瞭然で、歳出の50%が投資、歳入のほぼ50%が借入金となっており、だれが見てもおかしいに決まっている。しかしそれに対して議会は何もしなかった。つまり、地方議会がたんなる「学芸会」であるならば、もはや議会はいらないという議論の象徴が、この夕張の事例なのです。
■議会不要論の危機
一方、現在進行系というところでは、滋賀県知事選挙と県議会との民意の対決が注目されます。先日の知事選では新人の嘉田由紀子さんが当選し、前任の国松氏が落選しました。他県の知事と比較して、国松氏がそうひどかったとは思いませんが、7月20日に始まった県議会での嘉田さんの施政方針を聞いて、非常にすばらしいと感じました。
明後日からいよいよ県議会の代表質問において、知事選に現れた民意と議会選に現れた民意との対決が始まります。この民意の対決という問題については、東京の青島都知事選、長野の田中康夫知事と県議会、徳島の吉野川をめぐる選挙、東京・足立区長選挙など、われわれは何度も経験しております。そこには2つのパターンがあります。一つは、議会とは結局、既得権維持機関でしかないのか、という批判をベースとする民意の食い違いです。また、もう一つは、これはそう単純な話ではないのですが、いわゆる議会内閣制とはまったく逆の、議会不要論につながる民意の現れです。ただ単に反発するだけの、学芸会のような議会はいらないと考える人たちが増えていることが、議会選挙の投票率低下に現れる。都市部では40%を切るなど、もはや惨憺たるものですが、県議会選挙は特にひどい。
■分権改革の風を再びどう起こすか
次に、分権改革の全体ステージとの絡みで深刻なのは、三位一体改革が終わり、分権改革の風がまったく止んでしまったということです。次の政権が分権改革をやるかどうかなどまったく分からない、とにかくひどい状況です。
今年の骨太方針に、「分権改革」のフレーズがいったいどこに出てきたかと言うと、全47ページ中、「第3章 財政健全化への取組」の1項「歳出・歳入一体改革に向けた取組」の中項目の(4)「第U期目標の達成に向けて」のさらに下の小項目A「歳出改革」のA「各分野における歳出改革の具体的内容」に示された11分野のうちの一つに「地方財政」とあるだけです。「分権」という言葉でないばかりか、ツリーコードから考えても、とんでもなく下のほうにある。総務大臣が分権推進一括法をやると言ってはいますが、ポスト小泉政権引継ぎ書の中でこの程度の位置づけでしかない分権改革を、いったいどう起こしていくのか。
一つには、やはり地方からもう一度風を起こすことではないかと思います。新聞のニュースのつくり方にたとえると、風が吹いている方向に凧を揚げるとすっと揚がるように、いま風が吹いている分野のニュースを書けば、どんと扱いが大きくなるわけですが、風が吹かないときにどうするかと言えば、自分で走り出すことで風を起こす。これを「キャンペーン」と言います。これからの分権改革は、キャンペーンに等しいくらい、地方が自ら風を起こすことが必要となります。しかし、自治体職員・首長が「政治改革」などと言って、勝手にキャンペーンを起こしてもだめです。こんなくらしを実現するために、地方に力を与えることがなるほど必要なのだという人びとの共感が得られなければ、分権改革の風は起きない。
これまでの分権改革とは、総理・政権頼みの分権改革でした。それがなければ動かなかったとはいえ、執行機関が議会をたんなる付録機関としてちょこちょこ使うような地方政府を、人びとは本当に信頼などできるのでしょうか。大きな政府、小さな政府などという言葉は不適切で、人びとに信頼される効率的な政府というのが適切だと私は思うのですが、その際には人びとの願い、気持ちを吸収するのは行政ではなく、首長・議会という政治機関でなければならないと感じております。
■対決する民意の合意プロセス
先ほどの栗山町の議長さんの話では、「民意」と「討論」のお話しが印象に残りました。大森さんたちのまとめた都道府県議会議長会の報告にも書いてありましたが、議会が民意を吸収していると思ったら大間違いです。最近では、首長がどんどんタウンミーティングを開催しています。田中康夫知事も車座集会をしていますし、嘉田さんも座布団集会をやりたいと言っていました。このように、もはや民意の吸収機関は議会ではないというのを大前提として、吸収機関となるために首長と議会とが競い合わなければならないわけです。
これは政治学的な問題なので、私の言い方は間違っているかも知れませんが、二元代表制から見て民意というものは、首長選と議会選の双方に現れる。地域の大きな流れを示す方向は、やはり首長選挙や、規模の大きな市議会選挙に現れます。一方、議員選とは、小さな生活区域での人びとの気持ちや利害を表すものではないかと思われます。だからといって、何も議会がいけないというわけではない。一人の人間の中には、こうなりたいという気持ちと、そこまでいかないで、そこからゆっくりやってくれという二つの気持ちが存在します。首長選と議員選との民意の現れ方が異なるのは、もしかすると自然なことかも知れません。
問題はそこからどう合意をしていくかです。これから選挙を迎える田中さんの場合は、ただ突っ張っているきりでした。徳島県知事は、すぐに妥協してしまったために選挙で負けた。嘉田さんはどうするのか、非常に難しいところでしょう。もしかすると滋賀県の場合は、もう一度知事選になる気もします。選挙を二度すれば民意が確定すると言われますが、新聞記者としてはそこで論点をきちっと整理して、知事の言う表の面と裏の面、議会の理屈や足らない点などについて、みんなで延々と議論してもらいたい。誰もがそうした話しをするようになるくらい、延々とやってほしいと思います。
有権者が知りたいのは、プロセスです。民意とは固定したものではなく、そうしたプロセスを経ながら常に動き、固まっていくものではないか。首長選と議会選のどちらが民意かというものではなく、そこでできあがっていくのが民意であり、そのプロセスを伝えるのがわれわれメディアの役割です。情報を流通する自由、情報を知る自由、思想を表現する自由が保障された中で、一人ひとりが自分の意見と思想を固めていくのが民主主義社会の基本であり、われわれは職業倫理をもって情報を伝えていく。議会には、それに耐え得る議会になってほしいと思います。
■間接民主主義のフォーラム機能
次に「討論」について話します。18世紀の思想家のボルテールは、「僕は君の意見には反対だ、しかし君が僕と違う意見を表明する権利を、僕は命をかけて守る」と言いました。これが、われわれがヨーロッパから学ばねばならない、多元主義の思想だと思うのです。考えてみれば、あれだけ地方分権・地方自治に対して厳しい読売新聞が、私のような分権オタクの記者を雇っているのも、もしかするとその現れかも分かりませんが。
世の中には多様な価値観、言論があり、その中から一人ひとりが自分の政府に対する意見を決め、それを選挙に表していく。その表し方の一つに、住民投票という問題があります。私は、最終的には住民投票をやっても構わないだろうと思っています。ただし、かつて辻山先生もおっしゃっていたように、そこには丸投げ住民投票か、成熟した討議デモクラシーかという問題がある。政治リスクが多いからという理由で、市町村合併を住民投票で決めた自治体も多かったが、本来はメリット・デメリットを議会が延々と議論し、さまざまな意見を出し、みんなが考えるための素材を語りつくした上での住民投票であるべきです。直接民主主義と間接民主主義との違いがそこにある。私は伝家の宝刀、直接民主主義を否定はしないが、間接民主主義としてのフォーラム機能とはそういうものだと思います。議会の内容は、それに耐えるものになっているかどうか。それをしっかりと伝えるのがメディアの使命であろうと思います。
■合意に至る討議の重要なツールとは
栗山町条例が、議会として、民意を吸収しようとしていることは、大変評価できます。自民党の支持基盤は歴史的に個人後援会が強かった。旧社会党は労働組合的組織が強かった。議会の民意吸収の仕方は、個人後援会と組織だけだ、どこにも所属していないものはどこにいけばいいのか、という人びとが山ほどいたことをよく思い起こしてほしい。
議会が公聴会、報告会を行うことは大変重要です。議会報告会を最初に行ったのは宮城県本吉町ですが、そこでいいなと思ったのは、報告会を開催する際、地元選出の議員はその地域へは行かない、つまり街中出身の議員は周辺部に出向き、周辺部出身の議員は街中で話すというスタイルです。違う立場を互いに学びあう姿勢は、討議、合意の重要なツールだと思います。
話しは少々飛躍しますが、地方交付税制度のつくりかたにそのヒントがある。地方は、東京はやたらと金持ちだ、東京からふんだくれと思っている。東京は、ふんだくられたらたまらない、と思っている。しかしこれから東京は最速で高齢化が進み、そのためにとてもお金がかかるようになることを地方は理解してあげたほうがいいし、その反対に、交付税を減らすことで自治が崩壊するくらい大変なことになるという地方の実状を、東京は理解しなければいけないはずです。東京の法人税収入は、全国展開をしている企業の本社が東京にあるから高いのだということは、考えてみれば分かることです。合併で大きくなった市にも、それと同じことが言えるでしょう。
議会には、新鮮な民意をくみ上げる努力をしてほしいと思います。
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