基調講演
江橋 崇(平和フォーラム 代表/法政大学 法学部教授)
1.植生図から北東アジアを見る
まず、1枚の植生図を見てください。私は、これを、1992年に刊行された『謎の王国・渤海』(角川選書)から引用していますが、もとは、中国科学院編纂の『中国植被』という書物に載っています。
これはなかなか面白いものです。ここソウルは横線のモンゴリナラ林地帯で、中国東北部東半分と、日本で言えば北陸地方、東北地方、北海道西半分と共通です。キョンジュ(慶州)のあたりは、北京と同じリョウトウナラ林地帯で、左上がりの斜線で示されています。同じナラ林でも古くから農業に親しんでいた地域で、モンゴリナラ林地帯とはちょっと違います。プサン(釜山)はさらに違っていて、日本の関東より西の地域、中国では長江から南の地域と共通の照葉樹林地帯です。右上がりの斜線で示されています。
これが北東アジアの自然です。その懐に抱かれるように人々の食糧確保の方法があり、照葉樹林地帯には稲作の民、ナラ林地帯の海沿い、川沿いには漁労の民、内陸部には狩猟の民が、さまざまな文化と社会を作りあげました。そして、8世紀前後の温暖な時期に、ナラ林文化の領域に渤海という国が栄え、日本の東北地方には、後に安東氏、藤原氏の栄華をもたらす国がありました。それが10世紀になると、寒冷化し、12、3世紀までに渤海が滅び、藤原氏も滅びました。国家の滅亡にはいろいろな条件が重なるのですから単に気候変動だけでそれを説明してしまうのは危険ですが、それでも、寒冷化は食糧生産を乱し、国家の存続にとって大きなダメージでありましょう。いずれにせよ、その後、この領域の社会と人々はもっと南の人々に支配され、差別される歴史が始まったのです。
日本に関して言うと、江戸時代は、大体この横線部分が日本の北限でした。それが、ロシアの南下政策と衝突するようになり、国境線確定となりました。日本は、アイヌの人々は日本の人間であるという理屈を作り出して、それまでアイヌ居住地域への実効的支配などほとんどなかったのに、アイヌ居住の北限が日露の国境線であると主張し、北海道東半分と、この地図ではどういうわけか無視されていますが千島列島を獲得しました。サハリンの南半分は、アイヌとギリヤーク、オロッコの混住地域であるという理由で日露の共同管理が主張されましたが、千島樺太交換条約でロシア側に引き渡されました。アイヌの人々にしてみると、いかなる同意もしていないのに、一方的に日本領に編入され、先祖から受けついできた生活を否定され、土地や動物に対する権利を否定され、「土人」とされたのですからひどい話です。
この植生図は、もともと、自然環境が異なり、生活が異なり、政治的なまとまりが異なっていた人々が、併合され、支配され、差別されたのだという事実をものがたってくれます。日本はけっしてひとつではなかったことがよく分かります。
さて、それならば韓半島はどうでしょうか。私は、この地の歴史を知りません。韓国の友人の方々から教わりたいと思ってきました。ただ、この植生図を見る限りでは、新羅、百済、加羅、高句麗、渤海などの領域には、各々の特徴が有るのだということがよく分かります。韓国も多様な社会であったのでしょうか。
昔、日本の歌のリズムについて、音楽家の人に聞いたことがあります。単調で平凡といったら、その人は、それは間違った認識で、日本でも、農業地域は単調な二拍子だが、それは農作業のリズムに由来するもので、山岳地帯は、むしろ山仕事の、急斜面を降りるときのリズム、韓国は馬に乗って移動するときの跳ね上る要素の含まれたリズム、そして沖縄は、カヌーで海上を渡るときの波に乗って移動するリズムと教えてくれました。音楽のリズムだって、日本にはさまざまあったのです。そのときは、韓国と一まとめにされましたが、今度この音楽家にお会いしたら、韓国といっても、いろいろんなリズムがあるのではないかと聞いてみたいと思います。
今回韓国に来るにあたって、私の好きな、ファンビュンキさんの伽?琴のCDを聞きなおしました。彼が、失われて誰にも分からなくなっていた音色を求めて加羅の地をさまよい歩き、吹き渡る風の音に気付いて復元に成功したという感動的な由来のあるものですが、考えてみれば、加羅の風は照葉樹林の暖かな風であり、凍てついた渤海の風とではずいぶん違っただろうなと思います。
あまり脱線してはいけません。私がここで素人ながらに植生図の話をさせていただいているのは、実は、北東アジアの平和や協力を考える際に、皆様はどのような自分固有の地図をお持ちなのかを問いかけたいと考えたからであります。私たちは、今では便宜的に、日韓両国の市民社会と名乗っていますが、これは変なものでして、もともとNGOという言葉が国連で使い始められた当時には、国連の経済社会理事会の管轄に属することに関連して、国境を越えた公益のために、最低3カ国以上で活動している、組織的にも財政的にも政府から独立した国際組織のことを指していました。そういうものとして、それでは、私たちは、自らが自立している証しとして、政府の発行する政治地図以外に、ではどのような北東アジアの地図を持っているのでしょうか。環境の運動をしている人の環境地図、人権を扱っている人の人権実現度地図、子どもを扱っている人の、子どもの幸せ、大人の幸せ分布図、保健衛生の地図、平和資源の地図、その他その他、皆様の頭の中に有るであろう地図に対する満々とした興味と関心を持って、私はこの場に参加しております。これらの地図には政治的、軍事的な国境線は不要です。そうではなくて、市民の生活する地域の固まり、言語や民族の分布、産業や文化芸能、そしてそもそもの自然環境など、各々に固有のつながりと区切り線があるはずです。それがどうなっているのか。私たちは、国という観念から自立した市民社会として、どのような地図を持っているのか。それが知りたくてなりません。そして、これから3日間の議論と歓談によって、お互いの地図が豊かになり、もしかするとどなたかと新しい共通地図をシェアできるかもしれない。そんな思いも持っております。
昨年の12月10日、東京で開かれた準備会合の席で、私は渤海を話題に載せました。韓国側の出席者の方々に、韓国にも先住民族迫害の歴史があるのではないか、などと大変に失礼なことも申し上げました。照葉樹林文化の末裔としてナラ林文化の末裔を下に押し付けていないか。この植生図を見ると、なぜか、それが思い出されます。
2.天皇の「ゆかり」発言
準備会の席上で、私は、もうひとつの話題を持ち出しました。それが、昭和天皇の、日本の天皇の先祖は朝鮮の人という発言でした。それは、朴大統領の訪日したときのスピーチの一節であり、日本のマスコミは完全に無視しました。っそこで私は、韓国からの参加者に、青瓦台の記録を調査するようにお願いしました。
ご承知のように、その後、事態は劇的に変化しました。私たちが話し合った半月後に、今の天皇が誕生日の記者会見の席上で、恒武天皇の母親が、百済の武寧王の子孫であり、「韓国とのゆかりを感じています」と発言しました。これは、次の日に起きた不審船事件の余波で日本ではほとんど報道されませんでした。中には、不審船騒ぎは天皇発言が1面の見出しにならないように仕組んだ政府の陰謀だなどと、いつもながらの陰謀史観を述べるものもいました。いずれにせよ、今回は、韓国で大きく報道され、ニューズウイーク日本版3月20日号もトップで特集記事を載せています。その後、韓国側にご連絡もしないでいましたが、準備会の席で私の述べたことの真偽を調べて欲しいというお願いはもう意味がありません。
これは日韓の友好にとって、めでたいことでしょうか。今回、私としては、韓国の皆様のご意見をお聞きできるのを楽しみにしてまいりました。それをお聞きする前提として、私自身の意見を述べなければフェアでは有りませんので、簡単に述べさせていただきます。私は二つの疑問を持っております。
第1に、天皇の「ゆかり」発言は、恒武天皇の母親が百済の人だといっているのでして、天皇に朝鮮の人がいたというものではありません。日本では、昔から、外国人の女性の子どもを産ませるのは手柄であり、女は借り腹という性差別に満ちた言葉が示すように、日本人としてのアイデンティティは男系で受け継がれていくと考えられてきました。第二次大戦前には、ハワイの王女とか、エチオピアのお姫様などもお后候補とされました。朝鮮の併合を象徴するために朝鮮の李王家の女性たちが強いられた政略結婚の悲劇はここに詳しくご紹介するまでもありますまい。天皇の母親が朝鮮の人であることは、天皇家の家風や伝統が純粋に日本であるという観念と矛盾しないと考えられています。したがって、天皇の「ゆかり発言」によって、天皇制の思想が開明化したり国際化したりしたのではありません。
第2に、日本人の血と韓国人の血が交わるということはそれほどすごいことなのでしょうか。日本には、悪名高い「単一民族神話」があります。今なお猛威を振るうときも有ります。しかし、日本人の定義は相当にやっかいです。これは、明治憲法を作った伊藤博文を相当に悩ませた問題です。大日本帝国憲法第1条によれば、日本は、神武天皇に始まる万世「一系の天皇」が支配しますが、そうすると問題なのは、鎌倉時代になってやっと日本に帰属するようになった、ナラ林文化地帯の人々です。もっと困るのが、幕末、明治初期に日本が統治するようになった、北海道と沖縄の「新附の民」である人々です。さらに、どう考えても日本人とするのは無理なのが、台湾、朝鮮などの植民地の人々です。
結局、最大で30%の異民族を抱え込んだ多民族国家の大日本帝国においては、その支配の正統性を説明するために、日本は、単一民族神話の維持に向けた二つの抜け道を用意しました。ひとつは、日本人と結婚すれば日本人であり、日本人の家に入れば日本人であるという、血縁、家族関係の重視です。もうひとつは、共通の祖先があればよいとする、起源の重視です。日本人と朝鮮人は共通の祖先であるという「日鮮同祖論」はその一種です。
こうして「新附の民」にまで日本人の範囲が拡大されることで、日本は、北東アジアを侵略して領土を拡張していくことと、日本人の国家であることとの矛盾が覆い隠しました。これはその後さらに拡大され、昭和期には、大東亜共栄圏を支える理論にもなりました。こうした過去の問題点を思い起こすと、「日韓のゆかり」発言は、先祖の共有を肯定することで何を始めたいのか、まさかワールドカップ共催の理論付けでもあるまいにと、血の繋がりだけを強調する「ゆかり」論には不気味な思いがいたします。
今回のフォーラムで、私は、市民社会としての共通の歴史像作りをどう進めるのか、という課題が議論されるべきだと思います。北東アジアの平和のためには、異なった価値観の者同士がどうやって相互に理解し合っていけばいいのか。今は、天皇でさえこの程度のことは言ってしまう時代です。日韓の間には、教科書の共同作成という難事業も待ち受けています。私たちは、市民社会として、どの様にこれに取り組むのか、であります。
今回、私は、『謎の王国 渤海』からもう一枚の地図を借りてきました。渤海から日本にやってきた使節の道筋を、記録から復元したものです。日本の書物ですので、「日本海」となっています。お気に障ることも有ろうかと思いますが、少し我慢してください。
地図をご覧になるとお分かりのように、渤海の使節は、この海域をまっすぐ横切るのではなく、季節風を待ち、大きく南に迂回する航路をとっています。韓半島東海岸沿いに対馬沖まで南下して、反転して島根県沖に現れ、敦賀や三国湊に上陸する。あるいは、ナラ林文化圏に行くときは、さらに能登半島、佐渡島を越えて秋田沖に出て、出羽、野代湊、そして青森県の十三湊に届いていたのです。このU字型の航路は、なにも渤海使節の人々の発明ではありません。渤海使節には記録が残っているので、このように明確に描くことができるのでして、航路は、海域の潮の流れに乗ったものですから、航海術の未発達であった前の時代に遡れば、やはり活発に使われていたでしょう。九州の大宰府という日本の正式の外国使節接受の施設のほかに、この航路沿いに、越前(福井県)や能登(石川県)にもゲストハウス、「客館」が作られて使節の到来に備えています。謎の人物である継体天皇などは、越前に上陸して、そこを発して近畿地方を制圧し、天皇になってしまいました。この辺が当時の日本の玄関だったということです。
この地図を見ていると、明らかに、日本海側が表日本で、太平洋側が裏日本です。東京や、ソウル、ピョンアンにある政府の目ではなく、市民の目から見ると、この海域は、なんとも魅力的です。不審船がうろうろしたり、ミサイルがまっすぐとんで来るのではなくて、平和の行き来は大きく湾曲している。この海域は、お互いに異質なもの同士を結びつける可能性を示しています。お互いの行き来、資源の共同開発、共同利用、環境の共同保全、その他、北東アジアの市民交流を支えるのは、この海域をおいてありません。この地図を見ていると、果たして現代の私たちは、千年以上も以前の両岸の人々ほどには、この海を有効に使いこなしていないのではないかという疑問が出てきます。
私は、今回のフォーラムも含めて、この海域の有効利用について、もっと智恵を絞りたいと思います。最近、元代表の不祥事でやや元気がありませんが、ピースボートや、北朝鮮への支援米を積んだ船舶の往来も望ましいし、この海のために祖国に帰れない人々に、この海が仲立ちしたから帰れたというチャンスを作り出すことも望ましい。そうした市民交流、市民協力の場であると考えるとき、私は、この海域の名称も、「日本の海」でも「韓国の東の海」でもない、希望に満ちた共有のものに変えることを考えたほうがいいと思います。1990年代に、日本、ロシア、北朝鮮、韓国、中国、モンゴルなどの自治体が協力して、この海域や、黒龍江(アムール川)流域の共同開発が考えられてきました。知的交流の事業も行なわれました。北東アジアの平和のためにも、この海の新しい利用のあり方と、それにふさわしい新しい名前をNGOが提唱してもいいのではないかと思います。「ゆかり」を古い昔のDNAレベルの「ゆかり」ではなく、21世紀の私たちの生活と文化の「ゆかり」に高めるように、渤海使に負けない強い決意と、U字型に大きく迂回して難破を避けたのに負けない智恵を持って、
3.市民社会のガバナンス
ここで、もうひとつ申し上げておかなければならないことがあります。それは、市民社会の自己管理の原則、説明責任や透明性確保などの、いわゆるガバナンスの問題です。
私たちは、1970年代に、いわゆる「市民運動」を始めました。当時の日本では、社会運動のスタイルとしてはまだまだ過激なものが好まれておりました。そういう人々から見れば、私たちは、闘うことを厭う、根性も気概もない軟弱な傍観者、随伴者でありました。それでも、私たちは、当時の言葉で「シコシコ」と運動を続け、それなりに盛り上がりました。気がつくと、世間は20世紀後半をNGO革命の時期と呼び、私たちが提起してきたさまざまな問題について、時には耳を貸すようになりました。とくに、1980年代末期の社会主義体制の崩壊以後は新しい世界が開かれて、官民の連携がごく普通に唱えられるようになり、ある意味では世間にもてはやされています。
一方、韓国では、軍事政権の激しい抑圧と、光州事件のような悲劇を乗り越えて立ち上がった市民社会ですので、目を見張るような大きな力を発揮していますが、日本に比べると少し遅れたと思います。その分、日本側は威張っており、私たちは、僭越ながら韓国の民主化支援の運動も取り組んできました。日本の市民社会のほうが先輩であったのです。
でも、この10年間、韓国の市民社会の発展振りは、外部で見ていても目覚しく、今日の地点に立ってみると、どうやら日本の市民社会よりも、韓国の市民社会のほうがよさそうに見えます。たとえば、1995年にこのソウルで第1回目のシンポジウムを開催してからの7年間に、韓日の双方で市民社会がなしえたことを、参加者の皆様に投票していただいて集計してみると、日本の方が劣勢になるのではないでしょうか。私は、日本の市民社会は不振だと思っていますが、その原因の一端が、これからお話しするガバナンスの悪さに有ります。
最近の日本の社会は、「長期政権」「空洞化」という2つのキーワードで読み解くことが可能です。バブル経済の崩壊による苦境からの脱出はできていません。外務省や農水省によって、日本のお役所がいかに無内容、無責任になっているかがはっきりしていますし、建設、金融、流通、医薬、食品などでの企業の仕事もひどいものです。政治家の世界でも、自民党の加藤紘一事件が起きました。建設業界などから高額の口利き料を表でも裏でも取り立て、私的な生活の支払いにまで流用する。首相候補とまで言われた政治家の内実がいかに空疎になっているのかを明らかにしました。民主党の鹿野道彦事件も同様であります。国から支給される秘書の給料をピンはねしていた社民党の辻元清美事件は、社民党や共産党においても空疎化、空洞化がいかに根深く進行しているかを示しています。自治労事件は労働運動が、朝銀・総連事件は在日の運動が、いかに空洞化しているかを示唆しています。もちろん、学界や言論界も空洞化しております。文化、芸能、八百長と薬物使用がまかり通るスポーツ界なども同様です。そして、今日ここで取り上げたいのが、市民社会もまた空疎で、空洞化しつつあるという実状です。
1990年代、東西冷戦終結後の世界では、新しい政権に向けた組み換えがあり、それを契機に澱んでいた社会も少しはきれいになりました。この点では、前の大統領を監獄に入れてしまうような韓国は優等生です。これにひきかえ、日本は、1993年に自民党の単独政権を一度は終わらせたものの、細川内閣は1年と持たず、自民党の政権が復活しました。その後の政治の貧困は歴然としています。こうして見ると、韓国の人々がしばしば政権を替えるエネルギーには、改めて敬意を表さなければなりません。実にうらやましい限りです。
政権が長く続けば、その目標への緊張感が薄れ、さまざまな腐敗現象が起きます。今の日本を騒がせている政治家鈴木宗男の堕落振りは、まさにこの10年間の象徴であります。このように、社会にリーダーの交代を余儀なくさせるほどのパワーがなく、古い、情熱も理念も薄れたリーダーが残ってずるずると惰性的な支配を続ける。ここに生じるのが空洞化ではないでしょうか。
1990年代の日本は失われた十年と言われていますが、それでも「政府(自治体)の失敗」に対しては、公的資金の支援がおこなわれました。「市場の失敗」に対しても、公的資金の投入などの支援措置がありました。残念なことに、「NGOの失敗」は漫然と放置されています。そのために、いくつものNGOが倒産しました。國際協力NGOの草分けである鹿児島県のカラモジが理事長独裁で怪しい財政運営を行い、1億6千万円の焦げ付きを出して倒産したのはその代表例です。
なぜこんなにひどい話が次々と出てくるのか。日本社会全体を被っているこの疲弊、この空疎、この悪臭は何なのか。私は、このところ、このことを考えています。そして、出てきた答えのひとつが、リーダーが長期間ひとつのポジションにいるのはよくないという明快な原則です。
日本の市民社会に共通する三大悩みは、メンバーが増えない、お金が集まらない、リーダーが交代しないです。日本では、アフリカの飢饉であれ、インドネシアの山火事であれ、モンゴルの雪害であれ、マスコミが大きく取り上げるとお金と人が集まってNGOが立ち上がりますが、時間がたつにつれて市民の問題関心が風化し、マスコミは次ぎの話題に転じるので報道も小さくなり、運動体はじょじょに先細りになります。このこと自体は熱しやすく冷めやすい日本社会の特性と考えればいいのでしょうが、問題はその先にあり、リーダーは頑固に問題に固執して運動を継続しようとする、そのために交代するリーダーが育たない、そのために運動の訴える力が増えなくて、そのためにメンバーが増えないしお金も集まらない。そのためにリーダーの交代がさらに難しくなる、この、「そのために」でつながるNGOの衰退スプロールが随所で見られます。
それどころか、ほかならぬ自分が衰退の一因になっていることもあります。私も数年前にそうなっている自分を発見して恥じ入り、なるべく多くのところでもっとエネルギィッシュな若手に譲って逃げ出すことにしています。
それでも、日本の社会では、リーダーの交代はなかなか進みません。私は、市民社会が率先して政権交代のモデルを作り、リーダーの交代によって組織の運営が民主化され、その財政がガラス張りになることが大事だと思っています。90年代の日本では、NGOがそれなりに評価されるようになりました。政府や自治体とNGOの対話も始まり、政府の審議会などにも多くのNGOの人が呼ばれるようになりました。それ自体はどうということないのですが、かつてこういう地位にいたことのない人々の中には、急に脚光を浴びて舞い上がり、プライドがたかまり、ひいては自己のNGO運営や経理の処理に対する批判を受け付けなくなってしまった例が結構ありました。最近、大きなトラブルになっている団体にも、こうした運営のものがいくつもあります。これでは市民社会の活動も駄目になるのでして、逆に、早めのリ−ダー交代、誰にでも分かる経理、平会員でも意見の言いやすい運営が大事なのです。
日本の市民社会は、韓国の市民社会に対して先輩のような顔をしていますが、私は、最近ではもはやモデルの価値はないと思います。正し、皮肉なことに、失敗の面では、まさに「失敗の先輩」なのであります。最近の韓国経済は、日本のバブル景気の始まりに似た雰囲気だと伝えられてきました。日本のNGOは、結局はバブル期にそのあぶく銭に踊らされ、バブルがはじけ、郵便貯金の利子の一部などに過度に依存した運営を行なっていた団体は、その後に大いに苦しんでいます。
日本のNGOの失敗談は、めったに外部に洩れるものでは有りません。今回のセミナーはそれを聞き出すチャンスです。しかも、今回の参加者の中には、には、この間、日本のNGOの代表的な顔として、自分のNGOも、ほかのNGOも、そのガバナンスをじっくりと見てきた方々が多数参加しています。これを逃す手はないのです。この人たちからしっかりと聞きだし、韓国の市民社会の糧にする。人は成功よりも失敗から多くを学ぶといいます。韓国の皆さんは、「日本の失敗」から学んでください。それが私からのアドバイスです。
さて、なんとも湿っぽい基調講演になりました。パンドラの箱と違って、「希望」にも、空にはばたく機会を与えて終わりたいと思います。
日本でも、空洞化から脱出する希望がないでは有りません。政府においても、企業においても、多少はリ−ダーの交代が生じています。NGOの中にも、そうした動きがあります。そして、いまもっとも活発なのが、自治体の首長選挙です。長野県の田中康夫知事、千葉県の堂本暁子知事、川崎市の阿部孝夫市長、横浜市の中田宏市長などは、いずれも、多選の澱みを批判して長期政権を打ち倒しました。京都市の選挙の結果はご覧になったばかりです。日本の市民は思ったほど愚かでないとお分かりいただけると思います。今回のフォーラムを通じて、多くの智恵と勇気をいただき、空洞化を打破し、北東アジアの平和と友好になにがしか貢献できる日本の市民社会を作り出したいと思います。