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鈴木寛発言
ディスカッション「私たちの考える憲法素案」
鈴木寛(民主党 憲法調査会 事務局次長)
★当日配布資料(PDF)
私は、現在、参議院の憲法調査会の幹事と民主党の憲法調査会事務局をやっております。お聞きをしますと、民主党の議員も憲法9条などについては、多少話をさせていただいているということで、本日は、むしろそれ以外の部分についての問題提起をさせていただきたいと思います。
私は、大学卒業後、通産省に入り、最初は石油部で、高坂さんからお話があった、イラン・イラク戦争の裏側を垣間見ました。1991年の湾岸戦争の時は、日用品課というところにおりまして、米軍用の簡易ベッドやポリタンクなど、米軍が横須賀から積み込む物資の調達なども担当しておりました。
湾岸戦争というのは、未だに語られていない様々な裏側がありまして、あの時は日本が石油禁輸措置に同調することができた歴史上はじめての時であります。それ以前も米国などから何度かオファーがあったのですが、日本は、第三次オイルショックの危機にありまして、同調することはできませんでした。湾岸戦争の時にはじめて、石油の国家備蓄・民間備蓄がある程度進んでいましたので、日本は、エネルギー資源の脆弱性を抱えながらも、初めて先進国の動きに同調することができた時でもあります。
私が、13年間霞ヶ関におりまして、一人の市民として感じたことは、冒頭愛知さんもお話されたように、この国の体制「官僚機構はおかしい」ということでした。やはり、霞ヶ関から市民への「大政奉還」は必要だと、霞ヶ関内部から痛感しておりました。正式に霞ヶ関を「脱藩」したのは、99年でありますが、95年から一市民としてNPO・NGO活動を、土日や夜間に行ってきました。その中で、95年から大学などで教える機会をいただきまして、97年から中央大学、99年からは慶応大学で正式に教鞭をとらせていただきました。
そこでは、「情報社会論」という講座を担当させていただきましたが、私は、ITと情報を明確に区別しております。モノやエネルギー、もちろんそれも重要ですが、それよりも情報・コミュニケーションが重視される世の中を情報社会と呼びながら、講義を続けてきました。
私は、「創憲論者」であります。その思いは、現在明らかに脱工業化社会、ポストモダン革命、情報社会革命が進行しているということです。その契機はデジタルテクノロジー革命、IT革命であるわけでありますが、それが単に技術革命・産業革命のみならず、教育革命・医療革命そして社会革命、それがガバナンス全体の革命に及びつつある。そういうことをやってゆきたいという意味も込めて、“ソーシャルプロデューサー”というのが私のアイデンティティです。
もちろん、私も、愛知さん、高坂さんがおっしゃったような話について、大筋において了解する立場ではありますが、単に「20世紀の普通の国」になるために憲法を整理しようというのは、分からなくもないのですが、もったいないと思います。西洋から出てきた「近代化」の決着をどのようにつけるかということになりますが、近代化、モダナイゼーションの歪みが様々な形で出てきているわけです。そこで、ここは、一挙に二つのことをやりたいと思います。EUは相当実現していると考えますが、ポストモダンにふさわしい憲法をアメリカよりも早く実現したい。そして、次なるネクストパラダイムというものを、世界に指し示したいと考えています。
近代化とは、基本的にブルジョワジーが主として行う「モノとエネルギー」の生産活動を如何に効率的に行うかということだと思います。そのことが「帝国主義」を生み出し、「帝国主義戦争」を起し、その反省として「帝国主義戦争をやめよう」という流れがあったわけです。平成12年に、日本学術会議が「脱物質エネルギー志向の価値観」という提起をしていますが、まさにそういった発想で新しい社会づくり、国づくり、地球づくりを進めていって良いのではないかと思います。よって、経済至上主義、富国強兵、大量生産・大量消費、そのための標準化一斉動員といったパラダイムから、まさに文化多元主義・価値多元主義へと転換する。松下幸之助さんが「PHP財団」を作られましたが、私は「PHC」、これからのPeace
and Happinessは、プロスペリティ(Prosperity)によってもたらされるのではなく、もちろん必要最小限は必要であることは当然ですが、「コミュニケーション、コラボレーション、そしてコラボレイティブなクリエイションによって実現されるのだ」というコンセプト、フィロソフィーを天下に広めてゆく契機として「憲法創造」というものを考えております。
そのような考えで、権利のあり方を考えていくと、もちろん自由権、平等権は当然のものとして確認してゆかねばなりませんが、次なる付加価値として我々が考えていかねばならないのは、「人が豊かなコミュニケーションをしていく」ことを憲法上保障してゆくことです。文化権、コミュニケーション権と位置づけても良いと思いますが、その為ため今までの権利を再構成し、足りないものを創造・補充していく、障害となっているものを削除していくということが必要ではないかと思っております。
例えば、コミュニティを作る自由は、極めて重要な自由であります。私も、NPO法案の成立に、中央大学講師時代に参画させていただきましたが、その時感じたのは、日本は「結社の自由」すら保障されていない国だ。そこすら「官僚に握られている」国であるということでした。結社の自由を保障するための関係法規(民法典、商法典、NPO法)の整備すら行われていない。このあたりを憲法議論および付属法ということでもう一度再整備をしていかねばならないと思っています。
現在、教育基本法の議論がありますが、もちろん「愛国心」の議論も結構ですが、論点はそれだけではなく、例えば私学建学の自由というものは教育基本法上どのように位置づけるのかといった議論はあまり行われていない。こういったことも「コミュニティを設立・維持をする権利」を言う以上、環境、教育、社会福祉も同様ですが、議論していくべきであると思います。
個人情報保護法が、ここ数年の重要な話題でありましたが、次時代の重要な権利として、「自己コントロール権」、「著作権・著作人格権」などがあります。知的財産基本法ができまして「知的財産戦略ということを政府は声高に唱えています。大筋結構ですが、何故「著作活動が重要か」といえば、そこで財産を得るということも反射的効果として追求していくことも重要ですが、「コミュニケーション活動の本質である」という議論が少し欠けている気がします。
私は、「情報社会論」の中で、特に情報教育についての様々な先導的なプロジェクトを行ってきました。憲法上も情報コミュニケーション活動を保護されることは重要です。例えば、市民が情報を入手し、編集する、編集能力を獲得するといったことなども、『中学改造』という本の中で憲法26条について「学習権の確立」ということも世に問うておりますが、再構成をしていくことが必要ではないかと思っております。
同時に、やはり健康で文化的な生存を確保するということを、国の役割として再確認することも必要であると思います。そうした中で、犯罪・侵略、事故、災害に対する予防・保護・救助・救命ということをどのように確立していくのかを考えていかねばならない。警察権との関係というのは非常に難しい問題ではありますが、現在明らかに市民の安全が脅かされている中で日常的な安全をどう確保するのかという問題もあります。
もう一つは、蓄積・累積する目に見えないリスク(食・薬・大気・水質)についてです。ここで議論してゆきたいことは、「環境権」が様々な文脈で使われすぎておりますので、もう少し中身についての整理・議論が必要だと思っております。また、私は、教育とともに医療過誤、医療システムの改革に関心をもって国会活動を続けています。数週間前、行政監視委員会で医療過誤の問題における行政監視について質問しましたが、そういったものも、ある意味で憲法上の要請として確立していくことが極めて必要ではないかと思っております。
そういったなかでは、当然、情報社会論的統治原理・組織規範ということも議論されるべきであります。近代とは何であったかというと、人々をある社会目的のために動員する場合のツールとして、「アメとムチ」を基本としながら、そこに「権利と義務」というものを設定し、権利と義務を具体化するための装置が国家という器でありました。ただアメにしても、ムチにしてもコストがかかるわけで、結局は、どの国も、「高コスト高満足」、「低コスト低満足」を目指すのかということになる。できるならば、「中コスト高満足」を実現したい。その為にはボランティアが鍵となる。私は『ボランタリー経済の誕生』という本を書かせていただきましたが、まさにボランタリズム、自発的な社会貢献というものを、その地域社会でどれだけ有しているのかということが、ソーシャルキャピタルといわれますが、極めて重要な課題であろうと思います。
そこで、人はどのように自発していくかというと、やはり的確な情報を教えてもらう、そのことを共有する。その社会が抱えている問題の中で、自らの役割をしっかりと認識する、同時に他の仲間が別の役割を担っている、一人では無力かもしれないが、他の仲間とともに、それぞれが、それぞれの役割を全うした時、コラボレイティブにワークした時には、しっかり問題の解決がなされるということを共通理解とする、そのことをしっかりフィードバックすることが、自発的なガバナンスにとっては重要であろうと思います。
情報社会論の基本的なコンセプトとして、インターネットは自律・分散・協調の「哲学」であると考えています。今まで、自律・分散はしていましたが、自律・分散しているとバラバラなので、中央集権に負けていた。しかし、コミュニケーション革命の本質は、自律・分散していたものが協調できるということにあります。そういう意味で、自律・分散・協調原理というものを組織構造のなかに持ち込むべきであると思います。
行政・立法・司法という三権は重要ですが、加えて人々が現在の社会の中でどういう役割を担うべきなのか、どういう事態に直面しているのかということに関して深く理解することが必要になってきます。そして、情報を共有するという意味で、社会のガバナンスの中で、スクールとメディアは不可欠なものです。この問題に、憲法は答えていない。特にメディアのあり方について議論されていません。ここでいうメディアとは、マスメディアではなく、市民と市民との情報コミュニケーションを支援するファンクションという意味で、捉えています。
今まで霞ヶ関は、「日本最大のシンクタンク」と言われていました、そこに綻びが出てきている。私は、シンクネット、様々な立場にいる関係者が様々な観点から知恵を出し合い、様々な社会問題を解決しようとする、シンクネットウェイこそが重要だと思います。
代議制民主主義には様々なほころびがありますが、ハーバマスやルーマンが言っている熟議の民主主義(デリバラティブ民主主義)といったものについて議論できればと思います。
国際関係規範について一言だけ申し上げるとすれば、コミュニケーションの時代となっても、引き続きパワーバランスが世の中を動かしている現実は百も承知です。しかしながら、その現実だけに引っ張られてしまうのはあまりにも悲しい。ジョセフ・ナイもソフトパワーを言っていますが、私は、コミュニケーション・ディプロマシーというものをもう少し、声高に主張したいと思います。というのは私も、インド・パキスタンの問題に多少関与しておりました。2004年の段階で、インド・パキスタンは、現在小康状態が続いている一方、パレスチナは最悪の事態となっています。この差は何であったかと言うと、インド・パキスタンは、コミュニケーション・ディオプロマシーに対する努力を真剣にやった。これは、手前味噌で恐縮ではありますが、日本の国会議員の中で、初めてアフガニスタンに入り、初めてカシミールに入った政治家は、鳩山由紀夫であり、我々はそれを応援しました。日本のメディアはほとんど報道しませんでしたが、インド・パキスタンが大変な時期に、鳩山が入り、シラクが入り、朱容基が入った時期に外務省は何もコミットもしなかったというのが、日本外交の現実です。
先日のほど、参議院憲法調査会で面白い議論がありました。そこでは、政治家は宗教家ではないということが言われました。私は、それと同時に「政治家は官僚でもない」ということを申し上げました。理想と現実の中で、現実を踏まえながらも、理想に半歩一歩努力するということが政治家、真の民主主義というものであると思います。
最後に、「発言メモ」の5の(エ)で、我々が、松井孝治議員と一緒になんとしても実現したいことは、「憲法解釈の民主的統制」ということであります。現在、憲法9条をはじめとして、内閣法制局が、国家の大事である憲法解釈について影響力を持ちすぎているのは、どう考えてもおかしい。これを何とか市民のコントロール、市民の関与の下に憲法解釈を取り戻してゆきたい。一方、立憲主義の担い手であるはずの裁判所が、統治行為をはじめとして、様々な意味で躊躇している。裁判所にも相当な問題があると思います。例えば、一票の格差。安全保障の問題で、何故、東京の人が、島根の人の、五分の一の発言力しかないのか。こういう状態が戦後放置され続けてきた。そういう意味でも、司法番人、立憲主義の番人である裁判所、さらには立憲主義というものをもう一度考え直す、そういうことも憲法問題として捉えて行きたいと考えております。
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