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市民立憲フォーラム合宿〔05.01.08〕報告要旨
国民の三大義務の見直し
―教育を受けさせる権利・勤労の権利・納税の権利―

江橋 崇

 最近、自民党筋から、権利ばかり主張する世の中で、もっと義務の強調が必要だという意見をよく聞く。これに対して、さまざまな意見や反論がありうるが、私は、この際、憲法から市民の義務という考え方を一切取り外してしまうことを提案したい。こうすることで、卑俗な義務強化論は、主張の基盤を失うことになるであろう。

 かつて、兵役の義務に関して、それが市民権獲得のための権利ではないのか、という問い直しがなされたことがある。それは、兵役義務を免除される一方で各種の差別を受けてきた女性において、特に深刻な疑問である。上野千鶴子「市民権とジェンダー」(『思想』995号)はこの点についての一つの問題提起になる。兵役においてそれが市民権獲得のための名誉ある権利だとする議論があるならば、納税についてもそういう議論があってよい。今回は、その辺を問題提起したいと思う。

 現在の日本国憲法には、保護する子女に普通教育を受けさせる義務(第26条第1項)、勤労の義務(第28条第1項)、納税の義務(第30条)が定められている。かつて、大日本帝国憲法の時代に義務の一つに数えられていた兵役の義務(大日本帝国憲法第20条)は消えて、いわば「新三大義務」として存在しているのである。この憲法上の義務という考え方は弊害が大きい。

 憲法上、子どもの保護者には「保護する子女に普通教育を受けさせる義務」があるために、学校教育法上は、重度の障害で通学が困難な児童がいると、その親に、教育委員会宛に「就学猶予願」「就学免除願」を提出させていた。実際は、そういう子どもの親は就学を望んでいるのに、公教育機関の側に障害児に対応する能力がないので就学できないのであるから、これは、障害をもつ子ども自身の教育を受ける権利と、その子の保護者の教育を受けさせる権利の実現を妨げている人権侵害であって、むしろ政府の側が、「受入猶予願」「受入免除願」を子どもと保護者に出すべき筋合いである。

 似たようなことが、民族学校、インタナショナルスクールについても生じる。かつて神奈川県内の某浜市で、帰国生徒が、どこの学校でもいじめにあって転校を繰り返し、最後に、川崎市内の朝鮮人学校に入学したところいじめが解消したという事例があった。ところが、しばらくすると親は、市の教育委員会に呼び出され、日本人でありながら朝鮮人学校に入学させるのは憲法上の義務違反であるから、至急に公立学校に転校させるように命じられた。親は、市内のどの学校でもよいからわが子がいじめられないところがあるのならば教えて欲しいと懇願したが、教育委員会の回答は、いじめられるのは子どもの人格に問題があるからであって、しつけに失敗した親の責任を教育委員会に押し付けるなという叱責であった。

 フリースクールについても同様のことが言える。今日では、不登校児とその保護者が教育委員会から国民の義務を果たしていないと怒鳴られることも減り、むしろ、公教育の側が、フリースクールへの出席を学校への通学日数に読み替えて、成績評価もフリースクール側に委任して、卒業を認定する状況にあるが、かつてフリースクールの運動がはじまった70年代には、それに対する蔑視と敵意はひどいものがあった。

 そこで、義務教育という考え方を排除したい。そして、義務を権利に、義務教育という言葉を、教育を受けさせる権利に読み替えるとき、問題が全く新しく見えてくることがある。おおもとで教育を受けさせる権利が認められるのであれば、その先に、@権利を実現するための学校制度を提供し、その利用の便宜を図る政府と地域の責任が生じ、A制度の利用者である保護者が教育内容を選ぶ権利(学校選択権、教員選択権、科目選択権、教科書選択権)が生じ、B保護者(及び地域住民)が学校の管理運営に発言し、行動する権利が生じる。地域住民が一体となって学校での子どもの育ちを支援する最近流行の方式も、スムーズに実現できやすくなる。

 勤労の権利については、一応憲法上も書いてあるが、これの解釈はひどく貧弱である。しかし、従来から、この権利は、憲法25条の、「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利の物質的な基礎であるとする見解があった。基本的にはそれで正しいと思う。

 ところで、労働が「健康で文化的な」生活のために認められるのであるならば、労働そのものが「健康で文化的な」ものでなければならない。雇用の安定や労働の場の安全などは、勤労が権利であるからこそ生じてくる権利である。また、そこから、勤労の成果物を自分と家族の生存の維持に活用する権利も明確に出てくるであろう。労働の成果物が財産となっている場合には、住宅であれ、老後に備えた蓄えであれ、それは、憲法第29条によって、人権としての財産権、「人間に値する生活財」として特に念入りに保護される(今村説)。収用においても生活権補償を含む完全補償が認められることになる。

 納税の義務を納税の権利に転換させようという点が今回の報告の中心的なテーマである。納税は主権者である市民の権利である。税金を決定して納めることによって、人は主権者になることができる。こう考えることはできないだろうか。

 負担金、特に利用者負担金の場合は、収める負担金は提供されるサービスの対価という性格がはっきりするが、税金の場合は、一方的な収奪という考え方がなお盛んである。この際、これを権利と再定義することで、納税者の権利性を明確にしてみたい。

 今日、税は、嫌々、無理やりに納税させられており、その義務の違反は、脱税犯として犯罪者扱いされ、不足分は、差し押さえられてしまう。これは、江戸時代の被支配者の義務であったころの「お年貢」と少しも変わらない。これを、主権者としての権利とすることによって、さまざまな可能性が見えてくる。

 まず、納税を申告する権利がある。間接税の場合は、納税の権利をどのような形で実現するのかの決定権、選択権がある。どの自治体に納税するか。あるいは、どのNGO活動に寄附することで自治体に対する納税に代えるか。これは別に新しいことではない。昔は君主の提案に対する議会の同意権があった。近代国家では、市民による自主的な決定権の問題となるであろう。
 さらに、その者の持っている資源との関係で、金銭による納税、公役務の履行による納税、物による納税、情報による納税が認められるべきではなかろうか。日本古来の租庸調、雑徭の復活である。また、NGOへの資金の提供が代替納税として認められることにもなる。

 つぎに、税の使い方に対するチェックの権利が出てくる。適正で合理的な支出を求めること、情報公開を求めること、予算に関する国会や地方議会の決定権限を強めること、予算の執行に関する市民的な異議の申し立てを認めること、その他、さまざまな権利が出てくるであろう。この点については、税制に明るい専門家からの発言に大いに期待している。

 以上、細かい部分はさておくとして、この際、憲法上は権利しか書かないということを明確にして、われわれの意識の中にまだ残っている、国家が上にあって偉くて、下々の市民は規制され、義務を負わされているという観念から脱出できるのではないだろうか。

 最後に、ひとつの主張を説明したい。講談社の『日本の憲法 国民主権の論点』に、障害者の就労支援を行っている竹中ナミさんの談話が載っている。その題は、うれしいことに、「チャレンジドを納税者にしたい」である。彼女の活動するNGO、プロップ・ステーションのキャッチフレーズは、「チャレンジド(障害者)を納税者にできる日本」である。ケネディ大統領の言葉である「私はすべての障害者を納税者にしたい」にショックを受けてこうなったそうだが、人間にとって、働いて、納税して、この社会を支えることが喜びになり、誇りになり、権利になるということを、この言葉が端的に表現している。福祉のお金をもらっておとなしく社会の片隅でひっそりと生きるのか、納税して元気に活動するのか。「障害者を納税者に」という障害者運動の声が、納税の権利性を見事に示している。


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