提言目次 > 資料   日本国憲法制定の経緯における「国民の義務」

日本国憲法制定の経緯における「国民の義務」

江橋 崇(法政大学法学部教授)

 日本国憲法の「国民の義務」を「市民の権利」に読み替えようというわたしたちの提案には、さまざまなリアクションがある。どこかで、人々を刺激する内容をもっているのだと思う。無視されっぱなしでなくて良かった。
 ところで、日本国憲法には、いつ、「国民の義務」の規定が加わったのか。私たちを批判する人たちは、天地開闢以来の不易の規定のような考え方であるけど、本当にそうなのか。この際、日本国憲法制定の経緯を紹介しておきたい。

1)日本国憲法の原案を作成したGHQは、憲法に「国民の義務」を書き込むことに消極的であった。市民の義務(obligation)は、わずかに二個の条文に登場するだけである。すなわち、原案第一一条に、「この憲法が宣言する自由、権利及び機会は、市民の絶え間ない警戒によって維持されるものであり、又、市民に、その濫用を防止し、常に共同の利益のために使用する義務を生じさせる」とあり、原案第二九条に「財産の所有権は義務を課する」とあるだけである。

2)念のために言えば、GHQの原案第二四条で教育に触れたときには「無料で、普遍的で、強制的な教育が確立されなければならない」と書かれているだけであって、「教育を受ける権利」の保障でさえも触れられていない。まして、普通教育を受けさせる保護者の義務などには遠く及ばない。また、原案第二五条は「労働の権利」に触れるだけで、そこには勤労の義務の規定はない。納税の義務に至っては、これに関する条文すら存在しないので、影も形もない。

3)他方で、GHQ原案以前の日本側の憲法改正案では、権利と義務がべったりと背中合わせに付着していた。もともとの大日本帝国憲法が、その第二十条で「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」と定め、また、第二一条で「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ租税ノ義務ヲ有ス」と二大義務を定めた伝統を引きずっていたのである。以下、若干の例示を行いたい。

佐々木惣一案

第二三条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ依リ其ノ能力ニ応ジ公益ノ為必要ナル勤労ヲ為ス義務ヲ有ス」
第二七条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ租税其ノ他ノ公課ヲ納ムルノ義務ヲ有ス」

内閣憲法問題調査会案 (甲案)

第二十条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ公益ノ為必要ナル役務ニ服スル義務ヲ有ス」
第二一条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ租税ノ義務ヲ有ス」

同(乙案)

第二十条 削除
第二一条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ租税ノ義務ヲ有ス」
第三十条ノ二「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ教育ヲ受クルノ権利及義務ヲ有ス」
第三十条ノ三「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ勤労ノ権利及ビ義務ヲ有ス」

日本自由党案

言及なし

日本進歩党案

言及なし

日本社会党案

言及なし

日本共産党案

第四一条「人民は日本人民共和国の憲法を遵守し、法律を履行し、社会的義務を励行し、共同生活の諸規則に準拠する義務をもつ。」

憲法研究会案

一 国民ハ労働ノ義務ヲ有ス
一 国民ハ民主主義並平和思想ニ基ク人格完成社会道徳確立諸民族トノ協同ニ努ムルノ義務ヲ有ス

高野岩三郎案

国民ハ納税ノ義務ヲ有ス
国民ハ労働ノ義務ヲ有ス

憲法懇談会案

第六条「国民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ均ク公民トシテ公務ニ参与スル権利及義務ヲ有ス」
第七条「国民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ其ノ能力ニ応シ公ノ負担ヲ分任スルノ義務ヲ有ス」

4)ここではっきりしているのは、憲法上の国民の義務に関する考え方の対立である。GHQは、「義務」の挿入に消極的であったが、こういう態度と逆に、日本側の改憲案では、明治憲法の規定に影響されたのか、「義務」が好まれている。とくに、GHQに否定された内閣憲法問題調査会案(乙案)には、「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ租税ノ義務ヲ有ス」、「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ教育ヲ受クルノ権利及義務ヲ有ス」、「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ勤労ノ権利及義務ヲ有ス」という三つの義務が予定されていたが、日本側は、GHQ草案の検討の過程でこれの復活を策して、少しずつ巧妙に実現していった。

5)GHQ原案を翻訳した2月26日の閣議配布案では、人権保持の一般的な義務に関する規定として、第一一条「此ノ憲法ニヨリ宣言セラルル自由、権利及機会ハ、人民ノ不断ノ監視ニ依リ確保セラルルモノニシテ人民ハ其ノ濫用ヲ防ギ常ニ之ヲ共同ノ福祉ノ為ニ行使スル義務ヲ有ス」があった。このほかには、第二九条「財産ヲ所有スル者ハ義務ヲ負フ」があった。この憲法改正案では、財産権の保持者に義務を課しているだけである。

6)これが、3月6日の憲法改正草案要綱になると、一般義務のほうは第一一「此ノ憲法ノ保障スル自由及権利ハ国民ニ於テ不断ニ之ガ保持ニ努ムルト共ニ国民ハ其ノ濫用ヲ自制シ常ニ公共ノ福祉ノ為ニ之ヲ利用スルノ責務ヲ負フコト」とされて残されたものの、財産権保持者に関する「財産ヲ所有スル者ハ義務ヲ負フ」との規定はそっくり消滅した。
 この段階で、義務論復活の動きは、まず、教育の面で現れた。つまり、要綱第二四として、「国民ハ凡テ其ノ保護ニ係ル児童ヲシテ初等教育ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フモノトシ其ノ教育ハ無償タルコト」が加えられたのである。後の帝国議会での政府の説明によれば、子どもの教育を受ける権利が定められたことに対応する政府の義務が考えられるが、それは教育環境を整備させる政治的な施策義務であって、財政などの条件の中で検討され、実施されれば良いものであって、法的な強制を伴う義務ではない。他方で、保護者の教育を受けさせる義務のほうは、違反者に対しては刑事罰もありうる法的義務である。これは、「国民の義務」の復活第一弾である。

7)日本国憲法草案の6月20日の帝国議会提出案では、第一一条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならぬのであつて、常に公共の福祉のために之を利用する責任を負ふ」とされ、第二四条第二項では「凡て国民はその保護する児童に初等教育を受けさせる義務を負ふ」となった。第一二条の「義務」が、「責務」を経て「責任」に変わったので、この時点では、国民の「義務」という言葉を使っているのは「教育を受けさせる義務」だけであった。

8)その後、衆議院での検討の中で、第二六条第二項の規定が「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」というものに改められた。保護者が政府に対して負っている義務の内容、その範囲を法律で決めるというのである。官僚は、法律という形式さえ整えれば、教育に関して、保護者にどのような義務でも課することができるようになった。

9)また、この、衆議院での審議の過程で、第二七条第一項の「勤労の権利」を「勤労の権利及び義務」に改めることも決まった。勤労の義務は第二弾として復活したのである。
 この、「勤労の義務」も奇妙なものである。大日本帝国憲法の改正に際しては、第二十条にあった兵役の義務の廃止が問題になった。ポツダム宣言で陸海軍の解体を約束したし、実際に解体が進行して、陸軍省、海軍省も復員省になっているくらいだから、いまさら兵役の義務でもなかろうというところでは、廃止は必然であった。
 そして、この義務の廃止と引き換えのように登場してきたのが、国家のために兵役に代わる公務に参加する義務を定めよという議論であった。当時は、公務に貢献する義務とも言われていた。内閣憲法問題調査会案(甲案)は、その第二十条で「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ公益ノ為必要ナル役務ニ服スル義務ヲ有ス」と定めていたが、この考え方が、日本国憲法の審議においても繰り返し復活してくる。
 「勤労の義務」は「労働の権利」ととはまったく別のものである。この場合、労働とは、自己及び家族、友人らの健康で文化的な生活を支える自助の努力という意味で個人目的性の強いワークであり、逆に勤労とは、公共のために献身するという目的の役務提供のワークである。こういう勤労を義務付けるというのであれば、市民は、国家に対して、役務提供の憲法上の義務を負うことになる。したがって、この意味での勤労の義務は、労働の権利とは別の条文で、別個に規定されるべき筋合いのものであった。
 ところが、憲法草案が審議されていた当時は、社会主義思想の強い影響の下に労働運動が活発に展開され、「働かざる者は食うべからず」で、人間は労働する義務があるのだという左翼的な主張もなされていた。左翼は、もし勤労が国家への役務の強制的な提供であると知っていれば反対したであろうが、そこで巧妙にも官僚たちは「勤労の義務」を「労働の権利」と結合させ、「勤労の権利と義務」にしてしまって左翼の支持も取り付けた。ここに、国家主義的なボランティアリズムと左翼社会主義が合体してしまい、憲法の規定は、右と左で違った色彩に見える意味不明のものとなってしまった。
 戦後の憲法学は、左翼的であったから、この条文に含まれている、国家緊急時における、兵役に代わる役務提供義務という本来の意味を無視して、働くことは権利にして義務であるという説明をしている。こうなると、しかし、「義務」の性格はわけが分からなくなる。義務は権利に対応する。市民は、誰に対して勤労する義務があるのか。これがさっぱり理解できない。そこで、憲法の施行後の解説書では、「勤労の義務」というのは趣旨不明な言葉としてあつかわれた。そして、だれかが、この言葉があるので勤労の義務への意欲がない市民に対する国の福祉配慮義務は否定されるという理屈を立てると、それが広まって、またいつまでも影響して、今日までこのように解釈されている。

10)衆議院での審議においては、さらに、第三十条として、「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」と定めることも決まった。それまでの経過からすると唐突である。明治憲法の考え方を復活しようというのであるが、ここでは天皇主権の憲法が国民主権の憲法へと転身した場合に、それが税金や負担金の問題にどのような性格の変化をもたらすのかが考えられていない。憲法の基本的な性格が変わったにもかかわらず、条文のうえで同じ内容になってしまうことへの抵抗感はなかったようである。実際に、政府によるこの増補訂正の趣旨説明は、当然のことと繰り返すだけである。ここに、復活の最終弾、第三弾が出てきたことになる。
 1215年、日本で言えば鎌倉時代初期のころのイギリスで、マグナカルタが発せられてから800年間、租税に関する同意は議会の権限の中心であった。納税は、納税そのものが義務であるのではなく、主権者である国王が要求する課税について(議会を通じて)納税に 同意したことから生じる臣民の義務である。ヨーロッパの法諺がいうように、「同意なくして課税なし」なのである。この場合、さまざまな身分の臣民を代表する議会の権限は同意権、承認権である。
 それが、国民主権の時代になると、課税を決めるのも国民、納税するのも国民ということになる。国民主権の社会では、議会は、主権者市民を代表して課税を決定する機関である。よそで決まった課税に単に同意するか拒否するかということを決める機関ではない。
だが、天皇主権の大日本帝国憲法から国民主権の日本国憲法に変わったときに、課税権の主体が「議会に翼賛される天皇」から「議会を通じた国民」に変わったこと、議会の権限が承認権から決定権に変ったことは理解できなかった。そこで日本では、憲法は20世紀、租税法は19世紀のプロイセンそのまま、という奇妙なずれが生じているのである。プロイセンの租税法理論によれば、税とは、統治権を有する国家による一方的収奪であり、国の側からの特別の役務に対する市民の側からの反対給付の意味を持っていない。この言葉は、今日通用している代表的な法律学事典や百科辞典にそのまま載っている。主権者市民は驚かなければならない。

11)以上であるので、次のようにまとめておきたい。

【1】日本国憲法の国民の三大義務なるものは、最初のGHQの憲法草案にはなかった。「教育を受けさせる義務」は日本国政府の考案であり、「勤労の義務」と「納税の義務」は衆議院の考案である。たまたまこういう考案が提案されなかったとしたら、日本国憲法には「国民の義務」などという規定はなかったはずである。つまり、国民の義務の規定は、およそ憲法には必ずついてくる必須の装備ではないのである。

【2】日本国憲法は国民主権の憲法である。この憲法の下での主権者市民の教育や労働に関する立場が、「滅私奉公」の大日本帝国憲法当時と同じというのは奇妙である。同じように、主権者市民の納税を説明するのが、市民が臣民でしかなかった明治憲法当時の説明と同じというのも奇妙である。

【3】ここで、最も異論の多い納税義務論に絞って検討してみよう。私は、この納税義務論を廃止して、納税権利説で説明するのが主権者市民の納税の説明としてはふさわしいと考えている。
 国民主権の憲法で大事なのは、納税義務ではなく、課税への同意でもなく、課税への決定である。市民は、具体的な納税の額、時期、方法などの道筋を、議会によって法律の形式で決めて、自ら進んで納税する。これが納税権利説の政治思想的な背景である。納税義務説は、これに代わる、どのような国民主権型の納税理論を持っているのだろうか。

12)国民の三大義務のうちで、納税の義務は、特に新規に条文を起こして加えられた。掲示板に寄せられた意見の中には、納税の義務に関する条文が第二九条の財産権の保障と、第三一条の法廷手続き保障の間に置かれたことはどういう意味か、と問うものがある。多分に、法治主義の各論としての租税法律主義なのだといいたげに。憲法をそのように解釈するのはその人の自由である。この程度の思いつきを得々と語ることはないと思うが。
  簡単にいおう。衆議院の憲法審議の記録を見れば、納税の義務の規定を入れるべきだと主張して政府に迫った議員は、第三章の「どこでもいいから」入れてくれといっている。第二九条と第三一条の間に置かれたことには、さしたる意味はない。ここに憲法制定者の深慮を見出そうという試みは徒労に終わる。


ページトップへ  戻る

提言目次 > 資料 日本国憲法制定の経緯における「国民の義務」

 
 
 
 
 
 
 
Copyright (C) 2004 市民立憲フォーラム All Rights Reserved
市民立憲フォーラム 発足にあたって 準備会の記録 憲法調査会の動き リンク集 トップページ
市民立憲フォーラム 発足にあたって 準備会の記録 憲法調査会の動き リンク集 トップページ