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教育を受けさせる権利と教育を受ける権利の関係

江橋 崇(法政大学法学部教授)

何人かの方から、提言における親の「教育を受けさせる権利」と子どもの「教育を受ける権利」の関係について質問されていますので、私の考えを説明します。

(1)憲法第二六条第一項は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と定めています。「すべて国民」ですので、大人も子どもも教育を受ける権利を保障されていることになります。

(2)このうち大人については、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利があるとされています。これに対応するのが社会教育という概念でしたが、市民社会の成熟につれて、この官僚主導の概念に違和感が増して、市民の主体性を強調した生涯学習という言葉に置き換えられました。

(3)子どもについては、みずから主体的に学習することができないので、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利があるとされています。ただし、この権利は子どもが日本国内にいるときにだけ認められるもので、国境の外に出た場合は権利が保障されていません。おおざっぱにいうと、国外に出た日本の子どもの三分の一は「日本人学校」という私塾に通い、三分の一は現地校に通い、三分の一は自宅学習です。ちなみに、フランスなどは、国外にいる子どもにも公教育を受ける機会を与えようとして、大使館、領事館の中に公立の学校を設置しています。

(4)日本国内にいる外国人の子どもについては、かつては日本の学校に通う権利が否定されていましたが、市民運動、人権運動としての闘いが盛んになり、いまでは、原則として通学の権利が認められています。外国人の大人については、生涯学習を権利と考えることは少なかったのですが、各地の自治体やNGOが、日本語学習や市民交流などを通じて権利実現を支援してきました。

(5)したがって、憲法第二六条第一項の文言上は「国民」となっていますが、国籍の有無にかかわりなく、大人も子どもも教育を受ける権利を保障されていると考えられています。私も、これに異存はありません。
  他方で、この権利は国外に出ると消滅するというのは、二十世紀的な古い人権論の限界でして、私は、国外にいる人間にも国境の壁を乗り越えて権利保障をする論理を作り上げるのが、二一世紀の人権論のひとつの課題だと考えています。二十世紀の私たちは「国民」の壁を突破してきました。次の段階として「国境」の壁を突破するのは、二十一世紀の若い憲法学者に期待するところです。

(6)一方、憲法第二六条第二項によって、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」とされています。もともと、普通教育を受けさせる義務というものは、明治時代に、臣民の国家に対する義務として定められたものです。明治十九年の小学校令で一応制度が完成しています。その後、大日本帝国憲法が制定されましたが、教育は、教育勅語を頂点とする別枠の大権事項とされ、憲法の対象の範囲外に置かれましたので、大日本帝国憲法には、普通教育を受ける権利も、受けさせる義務も、定めはありません。

(7)日本国憲法は、教育の問題を憲法の中に取り入れました。整理して言えば、憲法第二六条第一項で主として子どもの教育を受ける権利を保障し、その権利を実現する責務を、国、自治体、保護者などさまざまな大人によって担うこととしました。親子関係における教育を受ける権利と受けさせる義務の関係はこの第一項の条文から導かれます。

(8)これに対して、憲法第二六条第二項の普通教育を受けさせる義務は、市民の国家に対する義務です。明治十九年の小学校令は、親の子どもに対する義務を定めたものではありません。親の国家に対する義務を定めたものです。子ども本人に対する義務は憲法第二六条第一項。国家に対する義務は同条第二項。この違いは明確にしておいたほうがいいと思います。

(9)こう考えると外国人の場合は少し困ります。憲法第二六条第一項が「すべて国民」の教育を受ける権利を保障しているのを、外国人も含めるものと解釈するのであれば、第二項で義務の主体とされた「すべて国民」にも外国人を含ませ手解釈するのが自然な解釈です。しかし、そうすると、日本にいる外国人に対して、子どもにその希望する自国の教育ではなく、その代わりに日本の公教育を受けさせる義務を課することになります。異文化の人、異民族の人を考えると、これはいかにも行き過ぎという感じがしますので、憲法の解釈としては、第二項の「すべて国民」には外国人は含まないということになります。そのために、日本国民の場合は子どもの教育を受ける権利と親の教育を受けさせる義務が認められているが、外国人の場合は、子どもの教育を受ける権利は認められても親には教育を受けさせる義務はない、というバランスの良くない解釈になってしまいます。

(10)明治国家における、臣民の天皇に対する超憲法的な服従義務の一部である「教育を受けさせる義務」を国民主権の日本国憲法に残存させたことの功罪と、それを「教育を受けさせる権利」と考え直したときにどのような新しい可能性が見えてくるのかについては、すでに指摘してきたことなので繰り返しません。ただ、外国人の場合はまだ説明していませんので一言加えます。日本の公教育制度が少数者の存在を前提にしてそれを許容するような柔軟なものになっていて、また、親には普通教育を受けさせる義務ではなくてそうする権利が保障されていれば、学校、クラス、教員、教科内容、教材に関する選択権も保障されることになるので、義務の衝突といった悩みは解消されることになります。

(11)「教育を受けさせる権利」という考え方は、「義務教育」という言葉の下で萎縮させられている「教育を受ける権利」も、もう一度生き生きとしたものに生き返らせる働きも持ちます。新しいイメージ、新しい可能性が見えてきます。これを足場に、現状の教育制度を見直し、正すべき点を正していただければ幸いです


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