設立記念討論会目次 >
質疑応答&自由討論
質疑応答&自由討論
安藤博(東海大学平和戦略研究所 教授)
ありがとうございました。それでは、会場の皆さんと共に議論を深めていきたいと思います。「市民立憲」ということを打ち出しておきながら、わたくし自身その定義があやふやになってきております。皆さんに質問をしていただき、「市民立憲」を明確にしていきたいと思います。
私も市民立法機構の運営委員で、市民立憲フォーラムの最初の準備会に参加しました。ただ、私が、これまでこの議論に入る時間がなかったので、今日はその整理の意味も含めて、須田さんの話を聞きにこの会場に来たのですが、正直少しがっかりしました。
今までやってきた市民立法機構と、「市民立憲」の関係がまずはっきりしない。「市民立憲」という言葉だけが走って、改憲の議論が上滑りになっていくのではないかと、ここ3ヶ月ほど外から見ていて今回のフォーラムには危惧をもっています。
最近のイラクの問題でいいますと、さきほど象徴天皇、自国軍不在と米軍駐留、占領下の憲法という単語が出たときに、少し欠けている点があると思いました。それは戦後改革で、国防保安法とか治安維持法とか戦前の弾圧政治を導き出した法律がすべて廃止されているという観点です。これは非常に大事なことで、我々は平和主義のもとで、平和国家をつくったという時に、治安維持法とか国防保安法といった人権弾圧をするための色々な法律がなくなったことをやはり積極的にとらえなくてはいけない。
なぜそれを言うのかというと、憲法の議論をする際、杉田さんも他の法律との関係を議論しなくてはいけないといいましたが、私もその意見には賛成です。さらに言えば、今申し上げたような視点が須田さんに欠けているから、こういう議論がでてこないのではないかと思います。
今、安全保障が憲法の条文に欠けているのではないかという議論で、安全保障をとらえて、そこから憲法9条が制約になっているから憲法9条を改正しようという議論が出てくる。そこは、関係の様々な法律を改正して、緊急事態法といったものでカバーできるのであれば、憲法を改正する必要はありません。そういう個別の法律をもう少しきっちり吟味する必要があると思います。そして、市民立法機構の本来の役割としては、そうした個別の法律をきっちり吟味することで、既存の法律でどうしても足らない部分についてのみ憲法で修正するというアプローチが筋ではないでしょうか。
たとえば、憲法裁判所という議論があります。これは憲法81条に違憲立法審査権が入って、それを具体化して最高裁判所の大法廷15人と5人ごとの小法廷の3つのグループでその判断をする組織を裁判所法でつくりました。ところが、砂川訴訟を最後に憲法9条と安保条約の関係の議論が裁判所ではできなくなっています。それは憲法に欠陥があるからかと問えば、私はそうではないと思います。逆に、なぜ裁判官に憲法訴訟ができなくなったのかという裁判所をめぐる議論を見ていく必要があります。それを抜きにして、憲法裁判所をつくろうという議論をするのは本末転倒だと思います。たとえば、今日では15人の裁判官の日程があわないために、大法廷がほとんど開かれないという実態があります。そうだとすると、逆に裁判所の中に、裁判所法を改正して、憲法裁判部を新設するとうことで対応できるかもしれません。常に裁判官出身の最高裁判事が8名以上いて合憲判断を維持できる構成自体の問題もあります。そうした議論の中で憲法を変えるかどうかということがでてくると思います。
もう一つ、憲法学者が、ここ10年、20年と、憲法を裁判の道具にするために、憲法の基本的人権の規定が使えるかどうかという議論を随分してきました。特にアメリカの憲法の議論を、日本の憲法解釈にいかそうということをしてきましたが、日本の裁判所は、憲法訴訟の理論を、合憲を根拠付けるためにしか使わずに、違憲に導くための理論として構成してきませんでした。そして、日本の憲法学者は、残念ながらそこを実務的にどう打ち破るための戦略をたてることなく、ただ研究会を開いて議論をしていただけではなかったかというのが、私が外から見ていた憲法学者への不満です。また、司法研修所では、違憲判断の仕方などは必修ではありませんから、そのような教育のあり方も問題です。
先ほど基本法という議論が出ていたと思いますが、憲法の人権規定をどう解釈するかという中で、その20年なり学者が研究してきたものを憲法訴訟法として具体的に立法できないだろうかということを、常々考えています。そうすると、どうも裁判所は立法を使ってもう少し憲法判断ができるかもしれません。ここは憲法の規定を活かすための道具立てとして不十分なところです。
「行政聖域」の温存の行政訴訟の限界の部分でも、今言った憲法訴訟法や行政事件訴訟法改正案などの議論を市民立法機構としてきっちりやっていく必要があると思います。
ただ、確かに「知る権利」は憲法に入っていません。そうすると憲法違反だと裁判所にもっていっても、最高裁は上告として受け付けてもらえない。憲法違反であれば上告として受け付けてくれますが、憲法違反でなければ上告は却下されます。それから先例としての判例に違反しているかどうかの議論をするには、まず上告として受け付けてくださいという申し立てをしなければなりません。ところが、過去の判例にそぐわなければ上告の受理の申し立ては却下され、その門前払いについて何も理由がかかれないという構造になっています。ですから、知る権利など新しい基本的人権の規定について、まともに裁判所で判断させるには、憲法に新規定として修正的に付け加えなくてはいけないかもしれないと思います。それは、アメリカ型の修正1条とか修正2条という形でつけくわえればそれで足りるかもしれません。
その議論はもう一つあって、もう一つ欠けているのは、憲法をこえて、国際人権規約等々の関係をどうするかという点です。「憲」という言葉が一つ制約となって、そういう視点をはずしてしまう限界になりはしないかとも思います。アジア人権憲章やアジア人権裁判所を考えて、その中で、日本の憲法を位置づける視点も必要でしょう。
ですから、市民立憲フォーラムというものは、市民立法機構の中の1ブランチとして、市民立法機構でできない部分を、若干補うという程度のものとして限定的に機能させる方が、今の日本のためにはいいのではないかと思っております。
私の議論をもう少しつめていただいて、そこから市民立憲フォーラムの積極的な意義が出てくれば、市民立憲フォーラムの設立は大いに意味があると思いますが、たぶん、私は今まで整理した中で、この理論を論駁されるものは出てこないだろうと思っておりますので、みなさんの忌憚のない議論をしていただきたいと思います。
安藤博(東海大学平和戦略研究所 教授)
ありがとうございます。今いただいたご意見を、市民立憲フォーラムの盛大なる発展のために、大いに活かさせていただきたいと思います。
須田春海(市民立法機構 共同事務局長)
私は素人で三宅さんは専門家ですから反論というわけではありませんが、一言だけ。戦後の改革を見たときに、憲法以前に農地解放が行われ、地方自治法が施行され、女性参政権が確立されました。そうした占領軍の改革は非常に大きな意味をもっています。それは、憲法とは関係なく、国際的に認められている共通価値が導入されたということです。そうした共通の価値観を一生懸命に確認してきたのが戦後民主主義だと思っています。ですから、最初の三宅さんのご指摘もそうした中の一つだと思います。
今のお話をうかがって、私とその後の三宅さんの発言内容とほとんどズレはございません。市民立憲フォーラムとは、憲法の条文をいじることが目的ではなく、現実の個別の法が機能しない部分について、どう私たちの考えで法を機能させるのか、変えていくのか、つくっていくのか、なくしていくのかという議論の延長上に構想されました。だから、ここで「憲法」を特殊なものとして考えないようにしようというのはそういう意味です。議論を憲法だけに傾斜せずに、普通に考えてきたテーマの延長線上で考えようというのが、最初の市民立憲フォーラム呼びかけの文書の基調になっていると思います。
私が一番、難しいと思うのは、やはり平和保障の問題、軍隊の問題です。これまで、ずっとこの問題については思考停止をしてきましたが、現実に、他に対する強制力をもつ武力集団を、それが警察であれ、軍隊であれ、現実に我々はもっています。それをどう制御していくのかという技術の問題。そして、もう一つはそうした強制力を持つことを社会的に、あるいは市民社会の上で正当に認める場合の価値観の問題。むしろそうした難しい問題を議論したくて、市民立憲フォーラムをつくったと考えていただければ幸せです。
最初に憲法の問題に取り組むかどうかを市民立法機構の中で議論した時、みな大いに悩みました。しかも、市民立憲フォーラムの事務局を担当してくれた安藤博さんから、「今日の問題提起は須田さんがしないといけないよ」といわれてからずっと血圧があがりっぱなしになるわけです(笑)。それで、世の中に憲法についての研究や記録がどれぐらい蓄積されているのか色々と調べていく中で、憲法というのは意外と面白いものだなという風に思えるようになりました。逆に、憲法だけを研究してきた世界には、ものすごく精緻な議論がありますから、もし私がそこに入っていたら、とても今日のような問題提起はできなかったと思いますし、そうした世界に入っていなくてよかったとも思います。そういう意味で、ぜひ、ごく普通の感性で、肩肘をはらずに憲法ないしは社会についての議論をお願いしたいと思います。
色々とお話したいことはあるのですが、私は後半の報告者となっておりますので、意見はそちらで言うとして、とりあえずここで申し上げたいのは、松下圭一さんの本のことです。
私たち市民立憲チームは、今、須田さんが言っていたようなことを思い悩む中で、この30年、市民立憲の先頭にたってきた松下さんに一度、意見を聞いてみようということで、お話をうかがいました。
彼は、@憲法条文、A憲法理論、B憲法構造の3つをしっかり区別しろといっています。これを聞いて、私たちは「我が意を得た」と思いました。日本の憲法議論は、憲法条文どうあるべきかというレベルと、「そもそも近代の民主主義は」といった憲法の理論・理念、憲法に対する憧れ・イメージのレベルと、憲法に関連する法律、国会法、内閣法、国家公務員法、地方自治法、裁判所法等々や慣習・判例・憲法解釈などで構成される憲法構造のレベルとが一緒になって議論されていて混乱している。これら3つをはっきり分けようということには大賛成です。私たちは、主にBの現実の憲法政治の構造に注目をし、ここを中心に扱って行きたいと考えています。
市民立法機構のメンバーは、ここ20、30年間、市民運動にかかわってきました。そういう市民運動は、確かに憲法改正案は出さなかったし、憲法条文の改正も議論してきませんでした。しかし、実際には環境権や知る権利、地方自治も含めた憲法構造に関しては、様々な提案や批判を行い、結果的に私たちの考えも憲法構造の改変については、役立ってきたと考えています。そうした過去の蓄積を見ながら、そういった立場から、憲法構造のあるべき姿について話をつめて行きたいと思っていたわけです。
松下さんは、「修憲」、「加憲」、「整憲」といった言葉を使われています。この「修憲」、「加憲」というのは、@の憲法条文について「修正」するのか、アメンドメント方式で「あとから足す」のかというものです。その一方で、Bのレベルで、憲法関連法を整備する「整憲」があります。だから、松下さんに言わせると「修憲」、「加憲」を考えるとともに「整憲」を考えようということになるのだと思います。
例えば地方自治一つをとってみても、憲法ができた時には明らかに、国との関係は上命下服でした。中央官庁のお手伝いをするのが仕事であった地方自治体が、分権の戦いの中で今日では、上命下服から対等協力へと政府自体も認めるように、憲法構造としては大きく変わった。つまり、中央集権的な憲法の構造が、地方分権的な憲法構造へとまさに変わったわけです。
私たちとしては、そういった構造的な変化をどうつくってきたのか、今後どのような構造的な変化をすべきなのかという議論と、改めて「修憲」、「加憲」をどう考えるべきかという二つの議論があるということを、松下さんの本を読みながら考えました。私、個人の考え方は、後半のセッションでご披露したいと思います。
黒河内久美(日本フォスター・プラン協会理事)
40年以上公務員をやっておりました黒河内といいます。現在は、NGO、まさに市民の立場から、何かできることはないかと模索している最中です。今日のような問題意識についても共感できますし、こういう考え方がもっと広がればいいとは思います。
ただこの考えを一般に広め、さらには立法という業務に携わる人々つまり国会議員やそれをサポートする人たちに、そういう意識を持ってもらうためには、非常に長い時間が必要だと思います。その為の方法論というか、どういった道筋・見通しを描いているのか、可能であればお教えください。
安藤博(東海大学平和戦略研究所 教授)
これから月例で「市民立憲フォーラム」の勉強会を開催し、文字通りいろいろな人々が集まる場、フォーラムをつくって議論を重ねていきこうと考えています。政治の場で、「政争の道具」としてではなく、建設的な議論がおこなわれるようになるための足場、橋渡しとなることができるようにとも思っています。
また、「市民立憲フォーラム」での議論を踏まえ、一年後をめどに、市民立法機構の中の一つのチームの提言を発表したいと思っています。その内容・体裁については、全く決まっていませんが。
須田春海(市民立法機構 共同事務局長)
高坂さんが後でご発言いただければ良いのですが、私はたまたま、猪木正道さんの『軍国日本の興亡』という本を読ませていただきました。これまで猪木さんと「どこかで自分の意見と一致することはないだろう」と思っていました。猪木さんは防衛大学校の校長を務められました。それから、元東大総長の林健太郎さんの『歴史からの警告』を読ませていただきました。両方とも何がきっかけで読んだかというと、1994年の村山内閣をどう評価するかという問題でした。村山内閣を右派リベラリストはどう評価したかというと、「もうこれで自分たちが戦うべきマルクス主義型社会民主主義はなくなった。次に自分たちはどこを警戒しなければならないか」と。その後、林健太郎さんは、「新しい教科書をつくる会」の人々と激しい論争を始めます。猪木さんは、「なぜ日本は軍国主義に陥ったのか、そのことを反省しなければならない」という論文を書き始めました。おそらく、20世紀初頭の河合栄次郎さんぐらいまで遡って、市民社会におけるリベラリズムとは何かと考えたときに、この方々との共通の枠組みがあるのではないかということを考え始めました。これは政治議論ではなく、一つの土俵の議論であります。
三宅さんのご意見の背景に、「市民立憲」を論ずるということは、いまの改憲論調に加担することになるのではないか、という心配があありになるのではないかと推察します。じつは私はそのことについては割り切り覚悟を固めました。
先ほど説明いたしませんでしたが、レジュメに「左派の怠慢、右派の怨念」というものがあります。左派の怠慢というのは、「9条があるから安心だ」、「9条が変わらない限り平和だ」として、起こりうるべき事柄、起こっていることに対して十分に対応できなかったということです。右派の怨念というのは、中曽根さんに象徴される「自前の軍隊、自前の憲法を持てなかった」という怨念、これが延々と繋がってきたのではないかということです。私の考えは、憲法を変えたいのであれば、どう変えたいのかはっきりさせようということです。市民社会の土俵で戦えなかったら、はじき出されるのはどっちかという問題でしょう。
もう一つ、別の言い方をすると、1960年代か70年代に鶴見俊輔さんが言っていたことですが、憲法を確認する作業を護憲派は恐れてはいけないということです。つまり、国民投票を恐れるなということです。私は、憲法を確認する作業を大衆的にしっかり行うことにこれまで臆病でありすぎたという感じがしました。
そういうことを含めて、このまま行くと、有事法制が実現したのと同じ政治構造のなかでドンドンと「いきおい」で決まっていってしまうのではないか。であるならば、むしろ、一気にこちら側も議論ができる土俵をつくって議論をした方がいい、と考えたのが、個人的にこの試みに参加している気持ちです。
杉田敦(法政大学法学部 教授)
私も、三宅さんと危惧をかなり共有している面がありますので、改めて若干申し上げたいと思います。今の須田さんの情勢判断を、決して一概に否定するものではありませんが、先日来の一連の騒ぎをみると、「国民意識への回帰」ということが相当大きなものであると思いますし、これが一時的なものであると見做すだけの根拠を、私はまだ持っていません。
護憲派については、須田さんも指摘されたように、憲法9条で内向きに守ろうという一国平和主義的な傾向が強すぎたと思います。サダム・フセインがそうだったかどうかは別として、誰が見ても独裁者といえるような存在が出現し、国内だけでは明らかに解決できないときに、果たして我々は「放置・傍観」すべきなのかどうか、といったことを平和主義と自ら任ずる人々は、必ずしも深く考えてこなかったし、考えることを回避してきました。
他方で、今、国民の間で流れている雰囲気というのは、そういった護憲派にもくみしないが、かといって、外国のことには自分では手を出さない。もちろん自衛隊には行ってもらうのだが、それも他人事だ(徴兵制の話でも出てくれば別ですが)という、いわばエゴイスティックな国民意識となってしまっています。
そうした国民意識が強まる中で、「市民立憲フォーラム」に集まっている方々は、松下圭一さんをはじめとして、官僚支配体制からの脱却のための好機として、今の憲法論議をとらえようとしていると思いますが、そういった問題意識が多くの人々に共有され、憲法論議の焦点となるかどうかは、予断を許さないところでしょう。
私は、その意味で、数年前よりも悲観的になっています。以前は、もう少し国民意識の相対化が実現できていると思っていましたが、現在、かえって国民という単位へののすたルジアが強まっている状況の中で、市民立憲のあるべき姿が実現できるかどうか、確信がもてないのです。
安藤博(東海大学平和戦略研究所 教授)
ご発言いただいた皆さん、ありがとうございました。前半の討論を終ります。
ページトップへ 次へ
設立記念討論会目次
>質疑応答&自由討論
|