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高坂節三発言
ディスカッション「私たちの考える憲法素案」
高坂節三(経済同友会 憲法問題懇談会 委員長)
★当日配布資料(PDF)/経済同友会「憲法問題調査会意見書」
(PDF)
経済同友会が「なぜ憲法問題を取り上げるのか」ということを良く聞かれますので、その辺から簡単に経緯を説明したいと思います。2000年の12月に国会の両院に憲法調査会が設置されました。政府・国会議員が憲法について議論していくのであれば、同友会としても、それがどういう意味を持つかを勉強しておく必要があるということで、3年前に「憲法問題調査会」を発足させました。その後すぐに、9・11事件が起きました。9・11事件にどう対処すれば良いのかということを含めて、主に安全保障の問題について議論をしてきました。例えば、集団的自衛権の行使に積極的な人も、反対の人も来ていただきました。現在、イラクに行っておられる番匠幸一郎一等陸佐の話も聞きました。その一年後に、中間報告を出したのですが、このときにはほとんどマスコミにも取り上げられなかったし、話を聞きたいという依頼もどこからもありませんでした。しかし、さらに一年後の2003年4月に、『憲法問題調査会意見書―自立した個人・自立した国たるために』を発表すると、今度は新聞各社から取材を受けました。一年で、これだけ急激に変わる世論というものの怖さを痛切に感じもしましたが、それほど変化が激しい。しかし、変化がいくら激しくても本質的な議論をしてゆかねばならないということで、二年間やってきました。
この「本質とは何か」ということについて、先ほどからの議論を聞いて感じたのですが、結局「憲法を改正しただけで、国が良くなるわけではない」ということです。やはり、国民の成熟度、愛知さんも言われたように、民主主義の定着がなされない限り、「憲法をいじったところで仕方がない」ということは多々あります。しかし、憲法を蔑ろにして勝手に拡大解釈を続けてゆくことの弊害は非常に大きいということを、9・11事件、イラク戦争を契機に皆が理解したからこそ、これだけ憲法論議が盛んになってきたともいえます。だからといって、「その波に乗ってすべてやってしまえば良い」ということではなく、皆で本質的な原点に戻って議論をすべきであると思います。
そのときの前提として、明治憲法も昭和憲法も、国民主権として国民皆で作り上げたものではないということだけは事実であります。もちろん昭和の憲法については、多くの人が賛成し、受け入れられたということも事実ですが、かといって、国民が主体的に、市民が議論をしてそれを作り、守ってきたかといえば、そうではありません。先ほど須田さんが話されたように、「市民が守ってきた」というところはあったかもしれませんが、客観的に見れば、非常に恵まれた情勢の中で本質的な議論を回避し、先ほどは「左派の怠慢、右派の怨念」と表されましたが、戦後日本は、片方は護憲、片方は改憲という「安楽な生活」をしてきたと言えます。
戦争直後はそれでも良かったと思います。しかし日本は、戦後、経済発展を遂げ、数字の上では現在、世界第2位の経済大国となっています。例えば、現在日本は、8億トンもの物資を世界から輸入しております。輸出はわずか1億トンですが、付加価値の高さで、貿易収支は黒字になっています。この8億トンを1億3000万人で割ると、一人年間約6トン。日本国民は、年間2トントラック3台分の物資を外国から輸入していることになります。このことを日本国民は本当に認識しているでしょうか。日本国内の繁栄だけを見て、世界から、石油・石炭などの資源を求め、食料ですら今や自給率は4割となっている現実を理解していないのではないでしょうか。江戸時代か終戦直後の日本のように、全く外国に依存していない状態であれば良いかもしれない。それこそ「島国根性」で自国のことのみを考えていれば良い。しかし、世界から見た日本とは、世界第2位の経済大国であり、重要なバイヤーであり、ODAを中心とした資金・技術の供給先です。にもかかわらず、日本人自体がそのことを全く意識していない。田中美知太郎という有名な哲学者は「台風は来るなと憲法に書けば台風は来ないのか」ということを述べましたが、かつては「平和」と言えば平和が守られてきました。こうした状況が破綻したのが、湾岸戦争であったと思います。
多少個人的な体験をお話しすると、イラン・イラク戦争の時に、私は伊藤忠商事に在籍しており、部下をイランに駐在させていました。政府は、部下がイランから国外退出をしようとした時に、守りに来てはくれませんでした。他の国は、すべて自らの国の航空機で迎えに来ました。たしか、サダム・フセインが、48時間か72時間の間、テヘランを攻撃しないというアナウンスをして、各国の航空機が迎えに来た。日本はどうしたかというと、トルコの大統領に頼んで、トルコの航空機に迎えに来てもらって、ようやく国外へ脱出することができた。私の部下もそうでした。
その時感じたのは、「日本という国はなんという国であろうか」ということです。もちろん当時は、渡航禁止令が出ていて、それを押し切ってイランへ入った訳ではありません。イランは、日本にとって非常に大事な石油輸入国であり、関係は非常に良いということだったので、私たちは部下を出しました。ところが、イランとイラクが戦争を行い、駐在員の生死にかかわるような事態となっても「政府は守れない」、「自衛隊は出せない」ということでした。我々は、防衛予算として、大体5兆円ほど自衛隊のために税金を費やしています。この自衛隊は「何のためにあるのか」、「どこまでやるのか」。こうした議論を「本質論」として先にしておくべきではないか。そういうことを議論せずに、何か問題が起こったときには、その都度、憲法の拡大解釈を行ってきた結果、今や「伸びきったゴム」のような「なんでもあり」の状態となっているのが現状です。
しかし、片方では憲法上の制約があるから、今の状況で一番気の毒なのは、むしろ自衛隊自身であると思います。「ああしてはいけない、こうしてはいけない」という制約が多い中で、派遣されてしまう。今回のイラクへの自衛隊派遣にしても、日本政府は、「非戦闘地域」に、「復興支援のため」に出したという。しかし、海外では「日本は戦後はじめて軍隊を戦闘地帯へ出した」と、ほとんどの外電が伝えている。ところがそれに対して国民は、実際に納得しているかどうかは別にして、暗黙の内に同意をしている。昨年11月の総選挙の際、与党はすでに自衛隊を派遣するという法律を出していたので、反対しようと思えば、国民は反対できた。ところが、国民はやはり自公保守体制に合意をした。合意した以上、自衛隊は派遣しなければなりません。これが民主主義ですから。その結果、実際に自衛隊は非常に苦しい立場に追いやられている。つまり、その前に議論しなければならないこと、「本質的な議論」をしてこなかったということです。
最後に、申し上げたいことは、阿久悠さんという作詞家から伺ったお話です。彼は、戦争のときに小学校三年生だった。終戦後、授業が再開されたときに、先生から「今までのことは悪いことだった」、「日本は変わったのだ」、「これからは新しい日本を建設するんだ」と言われたそうです。その時、阿久さんはこう質問したそうです。「それでは、今までの何を信用すれば良いのですか」と。これは、日経新聞の「私の履歴書」にも書かれていますが、彼の父親は、非常に真面目な警察官であったそうです。阿久さんは、今までの良いことが実は悪いことなのであれば、「お巡りさんは悪くて、泥棒はいいのか」と悩まれた。このような悩みが、その後今日まで解決されていない。「戦争の後の傷」や「戦前の評価」が、片方では「戦争ですべてが変わった」といい(宮沢俊義さんの8月15日革命論など)、もう片方では「戦前も良いところはあった」という。こうした議論を双方が避けて今日まで来てしまった。いったいあの戦争は何であったのか、何を学ぶべきかということについての国民的なコンセンサスがないことが、今日の日本の「最大の不幸」であると思います。
市民立法機構の皆様がおっしゃる通り、現在の縦割り行政には、私も大反対ですし、「官から民へ」、「中央から地方へ」ということも大事ですが、やはりその前に、憲法9条の問題は避けては通れないと思っております。
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