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須田春海発言
提起「なぜ、今、“市民立憲”か」
須田春海(市民立法機構 共同事務局長)
★当日配布資料(PDF)
本日の討論会には、自民党の愛知和男さん、経済同友会の高坂さんに、最初から参加していただいております。この方々と交流が始まったきっかけは、「地球環境問題」、「京都議定書の問題」で、市民がさまざまな価値観を越えて協力し合うなかで、環境庁長官であった愛知さん、同友会で環境を担当していた高坂さんと交流をさせていただいたわけです。
1980年代後半の東ヨーロッパでは、やはり「環境」を軸として、「右だ左だ斜めだ上だ」という人々が一緒になって議論したことで、新しい市民社会像が生まれてきたといわれます。そうした意味からも、本日、愛知さん、高坂さんにご参加いただいているということは、新しい市民社会をつくる突破口がここで生まれつつあるのではないかと、大変感慨深いところがあります。
本日、何故「市民立憲か」ということについてお話をしますが、まず、私は憲法の専門家ではありません。憲法の専門家ではない人間が、憲法について論じるということの意味を考え、悩み、いろいろ勉強してみました。憲法を論じるとなると、「大変難しいことを議論しなければならない」とか、「専門家の領域ではないか」と考えがちです。しかしながら、憲法も、一般市民が普通に生活していく上で考える「法」のひとつとして、普通に考えればいいのではないかと思い至りました。
本日、松下圭一さんが「この日」のために書き下ろした『市民立憲への憲法思考』が完成いたしました。これは、事前におこなった市民立憲フォーラム準備会で、松下さんを招いたときの話をまとめていただいたものです。松下さんと話をしていて感じたのは、裃を着て「やれ憲法だ」と議論するのではなく、日本の社会における法の構造、憲法が担ってきた役割というものを、自分たちの課題と関連づけてしっかり議論をすればということでした。そういう意味で、「護憲・改憲」といった政治的対立に呑み込まれることなく、内容に踏み込んで「何が必要なのか」ということを議論していく、これこそが「市民立憲」ということではないかと考えております。
私は、「憲法」という言葉を、誰が、いつごろ、どういった意味で使い始めたのかということを調べてみました。紀元前の中国の史書『国語』に「憲法」という言葉があるようですが、これはある種の「倫理・規範」を表しているようです。日本では、聖徳太子の「17条の憲法」で、この言葉が使われます。これは一種の「公務員の心得」で、実際に役所で働く人々に対して「和を持って尊しとしなさい」というものでした。この17条の憲法の最後は、すべて自分で決めるのではなく、「議論をしなさい・討議をしなさい」となっております。
この「公務員の心がまえ」としての「憲法」と、明治時代から使い出した「憲法」という言葉では意味合いが違っています。明治時代からの憲法は「コンスティテューション」の訳として使われています。憲法を起草したのは伊藤博文ですが、そのとき彼には3人の補助者がついていました。その中の一人、井上毅がしきりに「憲法とコンスティテューションは、全く違うので、これを一緒に同じ言葉で議論すると誤解をうける」という意見を出しています。「コンスティテューションというのは政体・国のあり方であって、公務員の仕事の仕方を決めてきた『憲法』とは異なる」。コンスティテューションという言葉の意味は、君(当時の天皇)の権限を国会で制限することであり、その趣旨をしっかり書かなければならないと。憲法とコンスティテューションの違いを述べているわけです。
明治憲法当時、自由民権運動のなかで「よしやシビルは不自由でも、ポリチカルさえ自由なら」という言葉に表れるように、シビル=市民はいなくても、ポリチカル=制度さえしっかりすれば、とラディカルな政治派が主張しました。それに対して「シビルのほうが重要だ」と考えた福沢諭吉に代表される人々は、「市民がしっかり生まれないと、制度だけを作ってもしかたがない」と主張し、両者は二つの流れをつくりました。実際には、「中途半端な制度」ができて、天皇を中心とする制度へ大きな変質が起こります。明治憲法制定以前は、「天皇」という言葉を使うかどうかさえ決まっていませんでした。
もう一つ、興味を持ったのは、はじめは「臣民」という言葉も使われていません。伊藤博文を直前まで補助した人々が使った言葉は「国民」でした。「天皇」や「臣民」、「万世一系」という言葉は明らかに、伊藤博文が、日本という国を一つの方向へとまとめていくために、キリスト教に変わる一つの機軸としてつくり上げたものです。あえて、すべてを天皇に集中させる体制を考え、それを憲法体制の機軸としてつくったということです。その憲法体制は、皆さんご存知のように、制限されながらも大正デモクラシーをうみますが、後半暴走し始めます。憲法は、憲法外機構・天皇制ファシズムによって蹂躙されてしまいました。そのことをしっかり考えておく必要があると思います。
ところで、「国のことはほっておけ、今は主が一番大事」と語る伊藤が芸者の膝の上で寝ている「夏島の伊藤博文」というビゴーの戯画もあります。もう一つ、宮武外骨という人物が、「とんち研法研究会」というものをつくって、天皇を骸骨に見立て、その骸骨に伊藤博文らしき人が恭しく上奏する様子を表現しているものもあります。その後宮武は「不敬罪」で3年間の重禁固になるわけですが、少なくとも、明治憲法はそういう雰囲気の中で成立しているわけです。憲法は、自由民権運動や大隈重信などイギリス型の発想をすべて排除し、夏島という密室でつくられたのですが、それなりの議論もあったのだと思いました。
ここで、戦後の憲法の話に移りますが、「マッカーサー憲法」とも言われる戦後憲法が生まれたとき、それに反対する論文や論説がどれほどあったのだろうとふと疑問に思いました。戦後、米軍の原爆投下の問題についてどのように対応したのかを調べていて、「こんな悲劇があった」と報告する多くの文書が米軍によって全て没収され、アメリカに保存されていたという事実を知りました。このことから、戦後憲法を批判した文書も、すべて没収されてアメリカにあるのではないかとも推測しています。共産党が制定時に憲法を批判しますが、それも含めて憲法への批判というものをあまり見かけることがないからです。これは私の勉強不足かもしれませんが、ある種、伊藤博文の場合と同様、マッカーサー憲法の制定過程も「密室の作業」であったことは間違いない。これは、憲法内容の良し悪しではなく、あくまでもプロセスのことを問題としています。
現在は、かつてのような密室の作業ではなく、経済同友会は高坂さんの私案を出し、愛知さんは愛知私案を出すというように、様々な意見が様々な主体から出されています。そういった憲法についての議論ができ「市民立憲」の基盤が整ってきていると感じていますし、そういう事実を受けた上で「改憲・護憲」という壁を越えて、わたしたちも議論の場を提供できればと思っています。
私は、戦後民主主義派でありますから、少なくとも70年代までは、“憲法を変える”ということを考えようとすることも拒否してきた人間であります。子どものころ、選挙で社会党が三分の一を超えると、「よかった、憲法が改正されずにすむ、なんとか日本の平和は守れる」と思ってきました。どうも「状況が屈折している」と感じ始めたのは80年代です。市民運動のプロセスで、私たちが目指している「市民社会」の価値観を、どう獲得していくかを考え始めたときに、憲法の条項とそれに関連する単独法との関係がうまく繋がっていない、憲法というのが神棚にしまわれていて、あまりうまく使われていないということに大きな違和感をもつようになりました。
私は、60年安保世代ですから、安保条約に反対する運動を一生懸命やりました。サンフランシスコ講和条約から安保条約にかけて、日本は独立国家としてのイメージをしっかり「国民合意」としてはつくりえてないのではないかと感じます。どういうことかというと、「国とは何か、政府とはなにか」ということは議論されてますが、少なくとも、主権を持った国に外国の軍隊がずっと駐留しているということは一体どういうことなのか、沖縄に行くたびに疑問に感じていました。まして、自分の憲法では「軍隊を持たない」と述べ、その軍隊を持てない国に、「外国の軍隊が駐留し、他国を守る」ということに一番の疑問を感じていました。
そういった疑問は、『「平和国家」日本の再検討』を書いている古関彰一さんなどの本を読みまして、改めて天皇制の問題を考え、段々と分かってきました。戦後日本は吉田茂以下「天皇制を維持するために、あえて武力・軍隊を放棄することを、日本の保守は、受け入れたのだ」ということであります。天皇制をつぶすと、様々な問題が起こるから、結果的な選択として、「天皇を残して軍隊を与えない」という選択をしたのだと感じました。
また、当時の文献を読むと、中国からは「日本は、自衛の名で中国を侵略してきたのだから、そんな憲法は信用できない」という主張がなされています。少なくともわたしは憲法9条の「戦争放棄」だけを受け入れ歓迎して、あとの二つ、天皇制と米軍駐留については脇に置いてきました。外国からみれば、日本は「憲法9条を持ちながら、米国の軍隊に依存して、平和を維持しているのだ」と。どうも、日本の戦後憲法体制は、「天皇制の維持」と「憲法9条」、「外国軍の駐留」という三つの矛盾したベクトルの社会を作り上げてしまった。この矛盾をもう一度しっかり考えないと、「安全保障の問題」や様々な問題が見えてこないのではないか、ということに気がつきました。
もう一度戻りますと、戦後、我々の世代は、戦後憲法の価値観、国民主権・平和主義・基本的人権というものを、心から歓迎しました。それは、いくつかの理由があるとは思いますが、平和主義に関しては、2000万人近い人々の犠牲の上に勝ち取ったものだという間違いのない事実があります。基本的人権に関しても、「臣民」ではなく、戦後は「市民」として、しっかりと権利を持って生きていくということに共鳴しながらさらに新しい価値観を私たちは付与してきたと感じてきました。そういう意味では、戦後憲法というのは距離があって遠くにあるのだが、個々の価値観としては私たちの日常生活の中で、絶えず血となり肉となりながら確認する作業をやってきたのではないかと思います。
ただ、不幸なことは、非常に大雑把な議論になりますが、自分たちの憲法であるということを政治的に確認する手続きができなかったのではないかと思います。占領下の憲法であったのであれば、独立した際に改めて承認手続きをとれば良かった。しかし、当時は政治が屈折し、左派は米軍に従属したままでの独立を認めないという立場であった。一方で、保守派は一応、独立であるという立場であった。その後、「護憲と改憲」が大きな争点となったわけですが、護憲は平和主義であり、改憲は戦前回帰であるという構造に飲み込まれ、今日まで引きずってきてしまった。その結果生まれた矛盾が現在のイラク状況であるわけです。
自衛隊は、外国から見れば明らかに軍隊です。日本は軍隊を持たない国であるが自衛隊を持っている。ここにまず矛盾がある。これはなんとかクリアしたとしても、現在のイラクが戦争状態であることは明らかであります。その戦争状態の地域に、武力行使してはいけない「軍隊」が派遣されるということを、法的に説明できるわけがない。そうした矛盾のツケは必ず帰ってきます。私は「脱憲」という言葉を使いますが、憲法から外れた状態が日常化している現在の日本は、非常に危ない状態であると思っております。そういう意味でも、改めて「市民社会における憲法」ということを、自分たちの立場で考えるべきではないかと思っております。
これから先は、極めて個人的なメモです。まず、「国家=国法依存社会からの構造転換」についてです。律令国家とは「刑法」と「行政法」しかない社会であります。ヨーロッパでいうローマ法、ナポレオン法典のような、市民が対等な立場で契約をしながらつくっていく社会法が成立していない社会で、そこにいきなり憲法が入ってきたことに、矛盾が生まれた根因があるのではないかと思っています。
次に、私的自治と公的統治の二分法ですべての社会を律してきたことも、明らかにおかしな社会だと思います。自治は、私的領域だけではなく公的自治にまで拡大されて、市民社会を形成する論理とならなければいけないと思っていますので、そこも、もう一度考えていくべきであろうと思います。
そして、できることならば、これからは「憲法」という言葉をやめてみようということが私の提案です。「憲法」という言葉の持つ神聖さや厳かさを止めて、「基本法」という言葉にした方がいいのではないかと思います。松下さんの『市民立憲への憲法思考 護憲・改憲の壁をこえて』では、「憲」という字が、4回も出てくる。私は「憲」という文字からは、「官憲」や「憲兵」といった言葉を連想しますので、個人的に市民的な言葉ではないと感じています。
しかし、それを踏まえた上で、今ある憲法を「整憲」していけば良い、少しずつ関連法で整えてゆけば良いといった議論があります。そう思いますが、せっかくの機会ですので、いくつか基本的なことも考えることをお許し下さい。
一つは、市民自由法と自由社会保障法というものがあればよいのではないか。実際にそれを支えるために市民社会基礎法、要するに民法や刑法のことですが、そういったものがしっかりあれば良い。そして、それだけでは、世の中うまくいかないので、「政府など」をつくる。政府などをつくる目的というのは、先ほどの市民社会基本法(市民自由法、自由保障法、市民社会基礎法)だけでは、実際には市民社会の自由は守れないし、「公共の福祉」も実現できないので、やむを得ずつくる。
いわゆる「政府など」は、法にもとづく政府だけではなく、株式会社など経済を営んでいる団体や、非営利市民団体も、ともに「公共の福祉」(パブリック・グッズ)を実現する役割を担うことになります。政府機構は、法による公正さを実現するための機構であり、産業機構というのは豊かさを市場を通じて実現するための機構であり、市民組織機構というのは、やさしさを伝播する形で市民団体が集まっている機構といえます。そういったものが一緒になって、公共の福祉を形成し、分任していくべきであろうと思います。今までの「公共の福祉」は法がすべて握っていて、そこから「公共の福祉に反する・反さない」、「私権を制限する・しない」、といった議論がなされていましたが、この構造を改革したい。社会に占める「法」のウェイトを下げたいものです。こんな提案をここ十年来していますので、あえてふれさせていただきました。
以上で、一応私たちが目指そうとしている方向の話をさせていただきました。
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