設立記念討論会目次 > 杉田敦コメント

コメント

 杉田敦(法政大学法学部 教授)

  今の須田さんのお話を受けて、私の考えるところを述べたいと思います。実は私自身、「市民立憲」という言葉を使うべきなのか、今でもためらいがあります。差し当たり、この言葉を足がかりとして、二つのことを申し上げたいと思います。まずは「市民」ということに関して、次に「立憲」ということに関して、です。

 「市民」という言葉を使うことに抵抗を感じる人が存在しています。「市民というのは存在せず、いるのは国民だけだ」という議論もかなり昔からあります。無国籍な市民や一般的な人間などというものはなく、イタリア人や日本人、中国人といった国民というアイデンティティしかありえないという議論です。

 イラクでの先日の不幸な出来事、人質事件という事態を受けて、「市民」という言葉を使いたい人々と「国民」という言葉を使いたい人々との間に行き違いが起こったようにも思えます。事件全体の評価は別として、私が感じたことは、日本社会のかなり多くの人々が国民というアイデンティティの方に、より「リアル」だという感覚を持っており、市民というアイデンティティについては、あまり「リアル」だと捉えていないということが、改めて明らかになったということです。

 先ほどの須田さんのお話でも、市民というのは、オカミからの命令系統に依存しない人、政府によって一方的に動かされる、受動的で主体性のない人間とは違う人を指しています。つまり、自分たちが主体的に政治に参加する、自己統治する主体としての役割を引き受けている人を市民という言葉で捉えている。もう一つ、それとは若干異なる意味合いですが、国境線を越える想像力を持っているという意味で市民という言葉が、よく用いられます。

 この二つの側面との関連で言うと、今回の事件ではまず、政府が禁止しているのに、自らの意思で行動したことがけしからん、という反応がかなり強かった。だからといって、一切の主体性を否定する人ばかりではないとは思いますが、かなりの緊張関係がありました。「まず政府の方針に従うべきだ」という考え方の人がかなり多いということも分かりました。

 そして、国境の外側で起こっている事柄について、かなり消極的ないし無関心な人が多いということも明らかになりました。つまり、イラクなどで起こっていることは、基本的には「放っておけばよい」、「あまり関与すべきでない」という反応が多く、少なくとも日本国内で起こっていることに比べると、二次的、三次的な問題であって、そちらに自分自身の軸足を移すということは、控えめに言っても「偽善的な行動である」という反応でした。そういう行動をする人々は、何か違う動機付けによるのではないか、という勘ぐりが、一連のバッシングの中で見え隠れしています。

 こうした反応を見たことは、ある意味でショッキングなことだったのですが、その是非をここで問いたいわけではありません。もちろん我々はみな国民であり、国民としての権利と義務を有しており、国民経済のなかで様々な恩恵を受け、活動しています。これは紛れもない事実ですし、国民としての様々な権利関係が、実際の社会においてかなり大きな部分を占めるということは、誰しも否定できないし、否定する必要もないことです。

 しかしながら、だからといって、国民というアイデンティティだけを引き受ける、それ以外のことには一切のリアリティがないという考え方も、あまり宜しくない考え方ではないでしょうか。もちろん、何でもかんでも政府に逆らえばよいというわけではありませんが、極限的な状況、あるいはクリティカル(本質的)な問題に関して、政府方針と違うことを行うこともあり得るという点を、個人は留保しておかなければなりません。

 それと同時に、今の日本の状況、すなわち国民意識への回帰、国民意識の高まりは、外国の苦難・国境線の向こう側で起こっている事態への無関心と結びついている可能性があり、非常に「内向き」な発想と関連している可能性があります。もしそうだとすれば、非常に問題です。私は、国民であることと市民であることとは、決して矛盾することではなく、両立し得る、あるいは相互補完的なものであると考えています。つまり、人々はネーションという単位の中で、経済活動をはじめとする様々な活動を行っていますが、同時にそれとは異なる視点や関係をももっており、すべてがネーションという単位に回収されるわけではないということも押さえておく必要があると思います。そういう意味で、「現在「市民」という言葉がかつてなく軽んじられているということについて、改めて若干の疑問を呈したいと思います。

 さて、この「市民」という言葉が、「立憲」という言葉と結び付くときに起こる大きな問題として、憲法が「国法」であるということがあります。憲法というものは、国際社会の法ではありません。主権国家の法です。従って憲法に関与するのは、とりあえずは国民であり、それを変えたりする当事者も特定の国民集団だけとなります。憲法問題という形で政治問題を整理した場合には、いくら「市民立憲だ」と言ったとしても、国民という単位が前面に出てきてしまうということになります。具体的には、外国人はその議論に参加することができるのか、(もちろん間接的には意見を述べることはできたとしても)最終的には国会という機関と国民投票を通じて決められる、日本国籍を持っている人々の間での「取り決め」ということになってしまい、その効果も(もちろん宣言文として外国に対してなどへも影響力を持ちますが)、直接的には国民に対してしか影響は及ばないということにならないか。

 その意味で、私は、政治問題をすべて憲法問題に帰着させるようなやり方は、国民というアイデンティティをいたずらに再強化することになりかねないという危惧を抱いているのです。我々の生活は「国民」としての生活だけではなく、アジア地域との密なネットワークや、もっと広くはアメリカやその他の地域との関係の上にも成り立っており、もちろんイラクとも関係がないわけではなく、実際には大いに関係があるわけです。しかし、憲法問題というくくり方をしてしまうと、そういった関係性の議論を取り入れることが難しくなり、実際には非常に内向きの議論となってしまう危険性があります。

 次に、「立憲」という言葉について述べたいと思います。須田さんのお話にもあったように、「コンスティテューション」という言葉は、決して憲法典だけを指す言葉ではなく、その周りにある様々なもの、慣行や解釈も含めて、その国の政治体制、政治のあり方の全体を指しています。これは決してイギリスのような成文憲法典を持たない国についてだけ言えることではなく、その他のところでも、「コンスティテューション」はかなり広く、政治体制として考えるのが一般的です。つまり、政治のあり方、その国において、どのように政治が行われているのかということ全体を捉えてコンスティテューションと呼んでいるということです。

 何故このことを強調するかというと、憲法典が政治に及ぼす効果は、もちろん大きなものですが、決して全面的なものではないということを明らかにしたいからです。憲法典と共に、関連する法体系、さらに言えば様々な制度・慣習・実践などの総体が政治というものを形作っているのであって、憲法典を変えれば、政治が一挙に変わるということはありえないということです。

 実際の政治のあり方としての「コンスティテューション」と憲法典との関係は、ゲームとルールブックの関係で考えると分かりやすいと思います。憲法典を書き直すことで一挙に何かを変えようという発想は、ルールブックを白紙に書いて、「こういうゲームをやりますよ」と言って始めるようなものです。しかし実際には、ルールブックというものは、そんな風につくられるものではありません。人々が何らかのゲームを始めて、それがある程度確立した時点で、様々な蓄積・実績をまとめ、記述することによってつくられるわけです。もちろんいったん作られたルールブックは一定の拘束力を持ち、それによってゲームはある程度固定化していくということがいえます。しかし、いきなりルールブックを書いて、何かを始めるという発想は、極めて不自然なものであるかと思います。

 そのように考えると、日本語の「立憲」という言葉には、水平な面に突然何か立派なものを立てるというような、極めて「不連続的」なイメージがあり、私などは、そこにある種の危惧を感じるわけです。コンスティテュートという言葉には、必ずしもそこまでの意味はないと思います。

 立憲ということを考えるにしても、すべてをいったん白紙に戻して考えるのではなく、これまでの日本の政治のあり方、外国との関係のあり方を見直す機会として捉えた方が良いと思います。つまり、どのようなゲームが行われてきたのかということを改めて確認する。もちろんその中で直すべきところを直してはいけないとは思いませんが、その場合には決して憲法典の再検討ということに終わるべきではない。むしろ憲法典だけではなく、明治憲法以来、日本国憲法典とともに積み重ねられてきた様々な制度・慣行も含めて全体をコンスティテューションと捉え、それについてどのように考えるのかという姿勢が必要であると思います。

 これまで護憲派とされる人々の一部には、「現行憲法があればすべてがうまくいく」という類の発想があり、これは一種のフェティシズム(物神崇拝)であるといえます。しかし、他方で「憲法を変えればうまくいく」と考えることもまた、一種の逆・フェティシズムに陥ってしまいかねないわけです。

 つまり、政治のあり方全体において憲法典のもつ役割とは、様々な意味において限定的だということです。まず、それは国内法であるということ。次に、それは日本の政治のあり方全体について統括的・総括的に動かしている特異な点(地球を動かすとされた「アルキメデスの点」のようなもの)ではないこと。そうした非常に限定的なものである、という意識の下で憲法典について考えるということであれば、私も賛成できるのではないかと思います。

 各論については、これから議論して行くということで、ここでは、言葉の使い方に関しての意見を述べさせていただきました。ありがとうございました。


ページトップへ  次へ

設立記念討論会目次 > 杉田敦コメント

 
 
 
 
 
 
 
Copyright (C) 2004 市民立憲フォーラム All Rights Reserved
市民立憲フォーラム 発足にあたって 準備会の記録 憲法調査会の動き リンク集 トップページ
市民立憲フォーラム 発足にあたって 準備会の記録 憲法調査会の動き リンク集 トップページ