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第1部 質疑応答・議論

須田春海(市民立法機構 共同事務局長)

 まず、いくつか非常にいい問題提起をしていただいたことに感謝いたします。

 わたしたちは、あえて「市民」という言葉を定義をしませんでした。 “The People”を「市民」として使ってみたというだけで、確かに「市民」を定義していないのは問題です。今、お話のあったように、西欧の「市民」という概念との混同があるのではというご意見はもっともです。おっしゃるように、国家が分解しても残る人びとを何と呼ぶかは、わたしたちも随分と悩んできました。そこであえて「市民」としました。

 もう一つ悩んだのは、国とは何かということでした。性善説と性悪説の議論に移る前に、最近はやりのネグりはスピノザの概念としてmultitudeを使っていますがこの用法はプロレタリアートの代替でしょうかね。韓国には「分衆」という言葉があり、そう訳されているようです。これは、大衆の中があるグループに分かれていて、個々が大衆的なものであるという意味で、おっしゃられたNacionismと非常に近い発想でそういうことを提起している人もいます。

 その際、共同体的規範がないときに、人はまとまっているだろうか、どうだろうか。もしまとまるとしたら、何でまとまるのだろうかと。そこで、性善説か性悪説かという話になるのですが、まとめるものが個人の外にあればまとまるのか。なくても、なんとなく人びとはお互いに助け合って、うまくまとまるのか。 私の立場は、なんとなくまとまるぞという立場です。これは、単純に私の直感で、選択でしかありません。人はまとまるということを前提に、個人の価値観の外にあるものではなくて、自分たちの選択の中で共通な何かが生まれてくると、一貫して思っております。

江橋崇(法政大学法学部教授)

 加藤さんは、性善説か性悪説かですべてが決まるとおっしゃられましたが、私は逆で、性善説、性悪説のどちらにたっても共通に理解できる準則があり、それに基づいて提言すべきだと思っています。私は須田さんと同じく性善説の立場に立ちますが、性善説、性悪説というのは感性の問題で証明できない話です。わたしたち市民立憲フォーラムの提言は、性善説に立たなければ説明できないというものにはしていないと思っています。

 もう一つ、昔、私が松下圭一さんに、「市民主義はあてになるのか?」と尋ねたところ、「当たり前だ。みんな大学を出てるんだぞ」といわれました(笑)。人間の性が善か悪かという話は抜きに、戦後の日本社会はそれなりに、市民が教育も受けて、物事を見る目をつくってきました。性が善であるか、悪であるかという本性だけでなく、時代の中でつくられてくる知的で善良な人間というのがあり、大学卒がどんどん増えているから大丈夫だといわれて、目から鱗でした。人間の本質・本性の議論はきりがないと思いますが、例えば、大学を出ている人の比率は増えているわけで、昔に比べると市民の自治もやりやすくなったのではないかなと思います。

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 大学を出た知識人が増えているというからということでしたが、憲法を書くときに誰に読ませることを想定して考えるのか。その答えは明確です。義務教育を終えた程度の知識をもった人が読んで理解できるのが、憲法の本当の姿だと思っています。それ以上の知識が要求されるとすれば、それはみんなの憲法ではないと思います。

司会:安藤博(東海大学 平和戦略研究所 教授)

 李先生(李鐘国・東大法学部客員研究員。第2部の講演者)、この提言の「はじめに」を読んでお感じになっていることがあれば、お願いします。

李鐘国(東京大学 法学部 客員研究員)

 これまでの議論を聞いていて、ヨーロッパ的市民と東アジア的国家という対立軸の存在を感じました。

 東アジアでは、国民国家をどう形成し、普遍的原理や規範性をどうつくりあげるかという問題で、リーダーたちが頑張っており、国家中心的な国家が指導するモデルです。東アジアでは、日本のように後発帝国主義国家としての国家建設をおこなった国もあれば、植民地支配を受けた国、半植民地状態にあった国もあり、国家のイメージはそれぞれバラバラです。これは、市民や社会をどう定義するかという大きな問題にまで広がります。その際、国家中心の社会と市民が活発に働く社会とでは、全然中身が違ってきます。

 20世紀の日本は、最初に市民社会や市民国家を打ち出して、知識人などががんばって60、70年代に日本の戦後社会に大きな影響を与えました。この日本の戦後民主主義が、韓国や台湾の民主化に大きな影響を与えたことを考えると、日本の戦後民主主義はある面では成功したと思います。私は、日本の民主主義が強くなって、制度化されればされるほど、他の国々が影響を受けるだろうという仮説をもっておりますが、他方で、日本の戦後民主主義の行く末に若干の危惧を抱きつつあります。

 また、社会科学を専門とする観点から、主に韓国の市民社会や市民運動と比較して、日本の市民運動の幅が少し狭いのではと最近感じています。韓国は、社会の変化が速く、いい面と悪い面をもっていますが、韓国の市民運動は、いろいろな課題について幅広く奮闘しています。一方の日本の場合は、ある地域あるいは特定の課題に限定された市民運動だと感じています。ですから、日本で市民運動や社会運動を拡大していくためには、いろいろな問題がでてくるだろうと思います。

 もう一点、市民立憲ということでは、憲法の前文と第九条の問題にもなると思いますが、前文の理念をだいで活かすのか、逆に、第九条を使って、前文を説明するのかという問題も絡んでいます。そういう点から、加藤先生の問題提起は非常に大きい点だと思います。

江橋崇(法政大学 法学部 教授)

 加藤さんにおききしたいのですが、市民立憲フォーラムの提言のなかで、 市民性善説から来る発想となっている部分はどこでしょう?

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 私は性善説だからダメということを申し上げておりません。性善・性悪の二つの立場があるだろうというだけです。人間の物事の考え方は非常に複雑なようで、案外単純です。私たちの社会学の考え方は、近代物理学の応用でしかありません。近代物理学の範囲から、私たちの思想は一向に進んでいません。物理学の一番の基本は、物と物の間には引力(協調)と斥力(対立)が働くということです。引力は社会学では協調と、斥力は対立と読み替えられました。引力の強調の考え方はルソー、対立の世界観はホッブズに引き継がれていくわけです。このルソーの協調に基づくところの国家関係というのを一つイメージするわけです。これはこれで一つの世界観が確立されるわけです。その一方で、対立の世界観がもう一つあります。どちらがいいかということではありません。私たちはどちらの世界観で、世界を見るかということだけです。

 その時に、私がどうしても対立の世界観で世界を見ている。この私はどうして対立の世界観を選ぶのだろうか、という疑問があります。逆に、みなさんは協調の世界観で世界を見ているようですが、それはなぜかをお尋ねしているだけです。

須田春海(市民立法機構 共同事務局長)

 性善説、性悪説という話と関連するのでしょうが、階級矛盾があって戦争が起こるという戦争の起こり方と、理由はともかく国家同士がぶつかり合う戦争の起こり方さらにはそれとも異なる紛争がおきている。それを制御する方法は、社会矛盾から解決していくのではなくて、もう少し管理的な形で対応していけばいいとお考えになっているように感じられます。

 性悪説であれ性善説であれ、紛争は起こるわけですが、その際の紛争解決のための管理の主体を誰だとお考えですか教えてください。

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 神様が紛争を解決してくれるわけではありませんから、ホッブズは、紛争を管理するために、お互いに権利を譲り合って、国家をつくりあげるという一つの物語をつくってしまったわけです。物語を一旦つくってしまったところで、国家が誕生すると、とたんに管理するもの、されるものという関係性が出てくる。

  ホッブズで重要なのは革命権があることです。だから私は国家を廃絶すべきだと考えています。ただし、その代わり、個人の武装権を返せと主張しています。個人はすべからく全員が武装する権利をもつというのが私の基本的な考え方です。だから、極論ですが、自分で自分を管理せよ、紛争は自分で解決せよと考えています。

須田春海(市民立法機構 共同事務局長)

 それは正当防衛権と同じだと思いますが、それを集団化した場合はどうなるのでしょうか。国家を廃絶した後の姿は何でしょうか。

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 集団化する人はすればいいと思います。おそらく一番まとまりやすいのは自然共同体でしょう。実はそのようにして自然国家ができあがるわけです。

 日本人は、基本的に自然国家の歴史をもちながら、明治以降、無理に人工国家の概念をかぶせたために、国家をなかなか理解できないでいますし、この自然国家と人工国家の間の摩擦が随所で起きています。こうした摩擦も憲法をめぐる対立にも表れてきているのではないでしょうか。

 人工国家の考え方とは、まさにホッブズの発想です。ヨーロッパにも自然国家の部分もありますが、日本よりははるかに人工国家です。また人工国家そのものかアメリカです。

須田春海(市民立法機構 共同事務局長)

 それでは、共同体ができた場合、構成員としての個人は何を共同体に委任するのでしょうか?

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 ホッブズ的な社会契約説なのか、一般的な親分子分的なものなのか、親子的な中で、長幼の序なのか、歴史なのか伝統なのか、私にはわかりません。

司会:安藤博(東海大学 平和戦略研究所 教授)

 わたしたちのことを「どうやら性善説のようだ」とおっしゃったが、そんなような顔をしているといったことでなく、提言のどの部分から性善説に見えますか。

江橋崇(法政大学 法学部 教授)

 性善説に見えるところといったら、例えば3ページの「第一に、日本の歴史的な責任とそこから生まれた憲法の平和主義に対する理解を国際的に徹底し、特に近隣諸国からの信頼を獲得する努力をすることが必要です。具体的には、日韓・日中・日露の磐石な平和的関係構築が急がれますし、日朝交渉も緊急です。」というところと、「上記の三つの努力がすすめば、総ての国が、紛争解決の手段としての『戦争』を放棄し、紛争の解決を国連に信託する時代がやってくるかもしれません。そこまで理想社会に近づけなくとも、近隣諸国が日本の憲法が『自衛の権利』を明記することを素直に受け入れる状況がうまれるかもしれません。いずれにしても次の世代の課題です。」でしょうか。そこ以外は事実が書かれているだけです。

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 相手の善意が信じられるかどうかという話です。

後藤敏彦(市民立法機構運営委員)

 政治学は突き詰めれば、性善説と性悪説に行き着くというお話でしたが、ユダヤ・キリスト教の大前提は、性善説でも性悪説でもなく、人間は過ちを犯すことがありうるという大前提があるだけです。私もそのように考えていて、性善説でも性悪説でもない世界観もあると思いますが、性善説と性悪説に二分法の見方が社会学の常識でしょうか?

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 それは私だけの独断と偏見にみちた見方です(笑)。近代という時代を限定すると、近代物理学以降の発展形態は、まさしく対立と協調の世界観でしょう。私も社会の基底に、宗教の倫理があると思っています。とりわけ、黄金律です。新約聖書のマタイの福音第7章第12節で、「人にしてほしいと思うことを、人にしなさい」という有名な部分です。この黄金律は全ての一神教に通じていますし、日本でも「情けはひとのためならず」とあります。このように、世界中に黄金律はあります。ですから、まさしく社会の基底は、ある種の宗教的黄金律によってなりたっているでしょう。その上に、地域性とか時代性とか色々なものが積み重なって、ある社会的考え方を形成していると思います。

須田春海(市民立法機構 共同事務局長)

  それは社会にある種の共感があるということでしょうか。

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 本当に社会に共感があるのか疑わしいのはなぜかというと、キリストがそう言ったのは、ないからそういったとも解釈できるからです。

又木京子(神奈川ネットワーク運動政治スクール理事長)

 性善説、性悪説というお話がありましたが、そもそも憲法を書くというのは、ある意味、宣言ですから、性善説的立場に立たなければ何も書けないのではないでしょうか。こんなに困った人たちがいてどうしようというよりは、わたしたちはこうありたいと書くのが普通だと思います。そういう意味で、こういう憲法案を書く土台は、性善説にあるのではないでしょうか。

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 ただ、性善説的考え方に立てば、憲法として文章化する必要はないのではないでしょうか。現実がそうではないから、文章化しなければいけなかった。性善説にたてないからこそ、文章化したのが憲法というのが、性悪説の憲法観だと思います。

江橋崇(法政大学 法学部 教授)

 私は、性善説か性悪説ということではなくて、契約は守られるべきだというのが私たちの提言の前提だと思っております。相手の性が善であることに賭けるのではなく、契約を守ることに賭けるのです。私は、中国人でも韓国人でも契約は守るという点は日本人以上に信頼しています。憲法の基本は契約です。約束は守られるという前提ですが、文書化した方がいっそう確かなものになるから、成文の憲法典にするのです。わたしたちの提言もそうなっています。

 わたしたちが70年代以降に運動として「日々の立憲」をやっていたころは、憲法典として文章化することなど考えていませんでした。そうしないで、市民の共通の理解を元にして、知る権利や環境権などを実現させてきましたが、文書化した方が契約は守られるだろうと思います。ですから、性善説であれ性悪説であれ、約束したらきちんと守るし、守ってほしいということです。

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 ニーチェの『道徳の系譜』を読むと、人間の第一歩は契約です。そういう意味では、契約の概念は、基本的には一神教の概念だと思いますが、逆に契約を守らなくても、お互い許し合おう思いやりの社会もあるのではないでしょうか。

 理想的な国民国家は、政治共同体、経済共同体、文化(民族)共同体、安全保障共同体の4つの機能を兼ね備えたものだと私は考えています。フランス革命で誕生した当時のフランスが、理想的な形でした。

 ところが、国民国家が世界中に広がるにつれ、現在は、すべてを過不足なく満足させられる国家はありません。だからこそ国民国家が解体してきたわけです。国家は自国だけで安全を守ることはできなくなりました。アメリカですらそうです。とりわけ国家が安全保障共同体としての役割を果たせなくなったときに、国家に頼らない個人の安全保障はどうあるべきか、というのが私の問題意識です。そこで、国家の安全保障がダメなら、個人の武装権を認めろというのが、私の意見です。その結果、どうなるかわかりませんが、みなさんの善意を信頼しながら、ということにはならずに、ホッブズ的価値観になるのではないかという気がしています。

小塚尚男(参加型システム研究所所長)

 一人ひとりが武器をもって、自己の責任において守るという点から考えるとアメリカが一番進んでいるのでしょうか?

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 あくまでも思考実験としての私の問題であって、私がピストルで自分を守るということではありません。ホッブズのParticular Securityを現在の世の中に適用したときに、もう一度、国家を立ち上げられるのか、立ち上げられないのかということを考えているわけです。

江橋崇(法政大学 法学部 教授)

 かつてイギリスでは、海軍はロイヤル・ネイビー、つまり女王陛下の海軍、実態は傭兵の海賊でしたが、陸軍は個人の自衛権を束ねた州や市の民兵組織でした。加藤さんは、日本でも憲法原理として個人に武装権をもたせるべきだとおっしゃいますが、そのときに、イギリスのように地域が軍隊をもつというのはできるのでしょうか、できないのでしょうか。できるとした場合、それは義務でしょうか権利でしょうか。どのようにお考えでしょう。

 もう一つ、加藤さんはフランス革命性善説ですが、私はフランス革命性悪説です。フランス革命でパリの暴徒たちがフランスの他の地域で地域ごとの文化や経済、地域の人びとの人権をどれほど潰したかということを考えると、フランス革命が理想的な文化共同体をつくったとは全く思えません。それに比べてイギリスは、地域文化を殺さずに、軍隊まで地域でつくらせました。だから、地方自治の母国がイギリスで、中央集権の母国がフランスになったと思います。

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 私もフランス革命がよかったとは思っておりません。恐怖政治をもたらし、世界中にテロを広めた革命であろうと思っています。

 それから地域における軍隊の問題ですが、一つの答えが、Private Military Companyだと思います。市場主義経済の発展で、軍隊の民営化が進んでいると思いますが、いずれは、国家が民営化される時代さえ来るのではないかと思います。ですから、古典的なボランティアはあまり考えておりません。

司会:安藤博(東海大学 平和戦略研究所 教授)

 加藤さんは以前から、国際貢献の部隊を作るなら多種の職能を集めることのできる労働組合の連合がいいと主張されていて、政府だ国だの前に、民間、市民と言う点で私たちの提言と重なる部分が多いと感じているのですが、いかがでしょう?

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 随分前から、連合がPKOをつくって紛争地域に行けというのが私の主張です。湾岸戦争の時には、防衛庁におりまして、連合が自衛隊派遣に反対を主張されていたので、だったらどうして自分たちが行かないのか?と思いました。

 しかし、よくよく考えると、労働組合は、多様な職種の人たちの集まりです。連合傘下の600万人の組合員が1万円を出すと、600億円。1万人に1人が志願すれば、600人の部隊となって、自衛隊のそれと同規模の部隊ができるわけです。訓練もカナダなどでできます。

 民間がボランティアでいくわけです。自衛隊派遣には反対なわけですから、自分たちが行って、困った人たちを助ける。そして、それを労働者が支えるというのは性善説にたって一番いいのではないでしょうか。

江橋崇(法政大学 法学部 教授)

 1980年代に、わたしたちNGOは、武力に依らない国際貢献をすべきだということで、外務省に働きかけました。その結果、アンゴラが南アフリカの植民地であった状態から独立した際の選挙監視団に30名の自治体職員が、選挙管理の仕事に出て行きました。ニカラグアにも行きました。ところが、外務省と一部の政治家が、われわれが汗を流して国際貢献すべきだとしていたのを、日本の軍事プレゼンスと一緒に使えということで、湾岸戦争の後の自衛隊の海外派遣という形に変えたのです。わたしたちがそれまで非武装で、日本の法制度的にも許される派遣をすすめてきて、その実績もできたところ、それを軍事的な国際貢献を認めさせる餌として流用されたということです。わたしたちは自衛隊派遣には反対という立場をとりました。ですから、日本の労働運動や市民運動が国際貢献について、何もせずに反対の声をあげていたわけではありません。仲間から犠牲者も出しながら貢献してきたということを一言付け加えさせていただきたいと思います。

須田春海(市民立法機構 共同事務局長)

 連合は災害ボランティアを始めています。災害ボランティアで人を募集して、即対応するということをやってきているので、いつか実現できるかもしれません。

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 いつかは、実現してほしいとおもっていますし、私も何かのお役に立てればと思います。

司会:安藤博(東海大学 平和戦略研究所 教授)

 市民が憲法をつくる、国をつくるところから始めるという私たちの提言に対して、「フォーラム」の掲示板での書き込みでは、能天気だとか、非国民だという罵詈讒謗が多くありました。このことで、どなたかいかがでしょうか

加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)

 国家が解体する過程では、みんな非国民になるわけです。違う意味ですが、私たちはみんな非国民です(笑)。

司会:安藤博(東海大学 平和戦略研究所 教授)

 それでは、第1部はこれで終わりにします。


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