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司会:安藤博(東海大学 平和戦略研究所 教授)
まず第1部で、提言の最初、憲法でいえば前文にあたる部分について。第2部では平和・安全保障の問題。最後は市民の自由と権利というテーマで議論を深めていきたいと思います。
それでは、早速、桜美林大学の加藤朗先生からお話しいただきます。よろしくお願いいたします。
加藤朗(桜美林大学 国際学部 教授)
私は、かつて防衛庁の防衛研究所に所属しており、国家間の戦争ではなく、国家対非国家、いわゆるテロやゲリラの研究をずっとしてまいりました。日本国憲法が想定していた国と国との紛争という概念は、現代起こっているさまざまな紛争の概念には合致していません。にもかかわらず、今の憲法で、そうした現在の紛争に対処してようとしているところに、そもそも無理があると考えています。
私の立場ははっきりしておりまして、現在の紛争にあわせた形で戦争や紛争を再定義し、憲法を改正すべきだと考えています。
今日は、憲法の中の国家と市民の問題についてお話しするわけですが、その前提としてとりわけ憲法九条の問題、紛争の問題を考えなければならないと思います。個人間から国家間まで社会のありとあらゆる紛争を含む社会紛争(Societal Conflict)の一部が、社会武力紛争(Societal Armed Conflict)です。さらにその極めて一部の紛争が、国家間の武力紛争です。私が“戦争”という場合は、この国対国の武力紛争に限定しています。
通常、国際法は、この国家間の武力紛争を想定し、日本国憲法もこの国家間の武力紛争を想定し、これを解決するために武力の行使を禁止しているわけです。
しかしながら、現実に起きている紛争の中では、国家と国家との紛争よりも民族や宗教といった共同体対共同体の紛争が圧倒的に多いわけです。日本国憲法が想定したのは、わずかに国家間の“戦争”だけで、それ以外の紛争の方が多くなっているというのが現状に、憲法第九条が対応できていないというのが、私の憲法に対する考え方です。
さて、提言の「はじめに」を読んで、まず私が思ったのは、臣民(Subject)、国民、市民(Citizen)の違いです。一般的に「市民」という言葉は、公である国王がいて、私である一般庶民がいて、その間に形成される公共空間の中に存在するブルジョワを指します。自分で物を考え、食い扶持を稼ぎ、公共空間で活動している人びとのことです。時代が下るにつれて、国王がいなくなり、この「市民」がだんだん大衆化し、国民化してくるわけです。ですから提言が想定するように、これらを包含する国家が全部なくなったからといって―別の意味で「市民」を定義しなおすのでなければ―すべてが「市民」になるとは思えません。
では、社会の入れ物としての国という制度がなくなるとどうなるのでしょうか。時に国家から社会がはみだすこともありえます。いわゆる破綻国家とは、社会がむき出しになった国家ですが、むき出し=無秩序かといえば、必ずしもそうではありません。いろいろな形で秩序は保たれます。その秩序を保つものは何かといえば、村落、宗教、民族といったもので、国民国家がなくても、社会の秩序は維持できるわけです。
では、この社会に暮らす人びとを何と呼ぶのか。何とも呼びようがありません。この人びとを「市民」と呼ぶとすれば、ヨーロッパ的な「市民」の概念と混同されるおそれがあります。すでにある定義をもった「市民」という言葉を使うのではなく、何か別の言葉を捜さなければいけないと思いますが、適当な言葉が思いつきません。新しい言葉をつくらなければいけないかもしれませんし、実は実態がないから言葉が生まれていないのかもしれません。
ここで一度、『リヴァイアサン』を書いたホッブズについて考えてみたいと思います。私は、防衛や安全保障から国家の起源を考えるようになったわけですが、近代安全保障の原点は、ホッブズの『リヴァイアサン』にあると思います。
ホッブズが考えた安全保障の概念は、個人の安全保障(Particular Security)でした。一部の翻訳では、これを「人間の安全保障」としていましたが、現在のHuman Securityが、集団としてのHumanの安全保障なのに対して、これは「個としての人間の安全保障」です。ホッブズも、国家が誕生する前に集団を構成する人びとを、multitude(群衆)と呼んでいます。現在は、プロレタリアートの言いかえとしてmultitudeが使われ始めていますが、『リヴァイアサン』で語られているmultitudeは、有象無象の人びとです。その中から、人びとは、お互いの契約を通じて国家をつくったというのが、『リヴァイアサン』のあらすじです。
だから、国家を全てばらばらにした後に残るものは、「市民」というよりは、このmultitudeという概念だろうと思います。このmultitudeという概念は、ホッブズが頭の中で考えた概念にすぎません。現実には、人びとは民族的共同体、宗教的共同体、村落共同体といった、同じ歴史をもち、同じ言葉を話す人びとが暮らしており、共同体としてきちんとした社会が存在している。この共同体としての社会の安全保障をどのように考えていくかが、安全保障の一般的な考え方です。こうした考えが、いわゆる保守本流の共同体を大切にし、守っていく郷土愛(パトリオティズム)や愛国主義へとつながっていきます。ただ、これは、正確にはナショナリズム(民族主義あいは国民主義)ではありません。国民国家ができたときには、愛郷主義がナショナリズムとして収斂していきますが、自然の中で人びとがお互いの共同体を重要視する概念として、私は、Nacionism(愛郷主義)と呼んでいます。
EUができていく中で、国家は分解していくけれども、その中でも残っている部分がある。それをまとめていくのは何か。例えばブルターニュ地方は、ブルトン語を話しています。そういうところに住む人びとにとって、フランス・ナショナリズムがだんだん希薄になっていくにつれて、自分たちの言葉や歴史を大切にし始めたときのよりどころとしてきたのが、地域のローカルのナショナリズム、私の言うNacionismです。これが一方にあって、ずっと続いていくと、「市民」とは別の郷土愛を基礎にした憲法の主体がでてくるのだろうと思います。
明治時代に秩父はじめ全国で自分たちのための憲法をつくった例がありますが、これらもそういう郷土愛に基づいていると思います。一方共同体をよりどころとしない、ホッブズの言うmultitudeの考え方が、近代国民国家の近代憲法の方向につながっていくのだろうと思います。
さて、市民立憲フォーラム提言「はじめに」で書かれている「市民」の概念がよくわかりません。そして、この「市民」の概念は性善説を前提にするわけです。みんな知識があって、理性があって、物事をちゃんと判断できる。ホッブズはそういうことは一切考えませんでした。有象無象の群衆が、どうやって自分たちをまとめていくのか。ホッブズは明らかに性悪説に立つわけです。結局、すべての政治学は、人間は性善説か性悪説かという所に収斂されていくわけです。最後に自分はどちらをとるのかという主体的判断だけです。
この市民立憲フォーラムの提言で、私がお尋ねしたいのは、なぜ、「市民」は理性的な存在という立場に立つのかということ、ただ一点だけです。皆さんのご意見をぜひお聞かせください。
司会:安藤博(東海大学平和戦略研究所 教授)
非常に根本的な問題提起をいただきました。性善説か性悪説かということで、執筆者の須田さんからお願いします。
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