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みなさんこんにちは。遅れて参りまして、しかも終わったらすぐにでていってしまうということでたいへん失礼な登場の仕方で、申し訳なく思っております。
私は、家族の介護が必要である方や、介護保護法となって施設や病院のベッドの上におられる方、そういった方々も含めて、IT・情報通信技術を活用して、自分が世の中でできることを発揮し、それを仕事としてしっかりと収入や自立へとつなげていこうということを、日本で15年ほど前から活動をやってきました。
そのキャッチフレーズとして「チャレンジドを納税者にできるニッポン」というものを掲げております。チャレンジドというのは、アメリカでADA法(アメリカ障害者法、Americans wITh DisabilITies Act of 1990)というものが15年ほど前にできましたが、その時に、アメリカの人々がいわゆる障害者にかかわって、自分たちでつくりだした言葉であります。それまでは障害者のことはハンディキャプドとかディスエイブル・パーソンなどというような言い方をしていました。そこでアメリカの人たちが、自ら人権国家といっておきながら、一人の人の、できないところ、不可能なところにだけに着目して、それをその人の呼称にするのはおかしいのではないか。ディスエイブル、できない人と可能なところを否定する呼び方はおかしいのではないか。その人の可能性の部分に着目をして、呼び方も考えるべきではないかという議論が起こり、そこからチャレンジドという呼称を自ら生み出したということを、アメリカの支援者の方から教えていただきました。
当時、私は神戸っ子なのですが、10年前の阪神・淡路大震災が起こり、どのように復興していってよいのかわからず、茫然としているときに、アメリカでは、チャレンジドという言葉が使われているということを知りました。チャレンジャーであれば、挑戦者ということでイメージがわきますが、チャレンジドであると。関西弁では、「どけち」とか、頭に「ド」がつく場合もありますが、お尻に「ド」がつくというのはどういう意味かと思いました(笑)。それを尋ねると、おそらく神からということになるかと思いますが、挑戦という使命や課題を与えられた。、挑戦するチャンスや資格を与えられた人たちということで、この言葉がハンディキャプドやディスエイブル・パーソンにかわってアメリカの人たちが生み出した言葉であるということを聞きました。
またそれは、決して日本でいう障害者の人たちを表すだけでなく、たとえば震災復興に立ち向かう人たちもチャンレンジドだ、と幅広い使い方をする言葉だとも聞きました。その言葉の中にある哲学、考え方というのは、すべての人間に、自分の課題に向き合う力があるのだ、そしてその課題が大きければ大きいほど、その力も大きく与えられているのだ、ということでした。なんというか非常に、人間にエールを与えるような哲学がこめられている言葉であるということを聞いた瞬間に、当時呆然としていた、私や私の仲間たちが元気になっていきました。どうやって復興していったらいいかわからない、どうすれば乗り越えていったらわからないという、あの大震災の最中にあって、あなたはこの困難を乗り越えられるかどうかはわからないけれども、向き合える人だ、あなたには向き合える力がある、というその言葉に、私だけではなく、プロップ・ステーションの仲間たち全員が、非常に大きい勇気と元気をもらったわけです。
そこで、わたしたちは次に何をしたかというと、コンピューター・ネットワークでつながる活動をしておりましたので、その当時はもちろんインターネットや携帯電話はなく、パソコン通信だけでしたが、電気と電話線が回復した瞬間に、ベッドの上にいる仲間、私のように動き回れる仲間、みんながパソコン通信で、私は生きているといった安否情報を交わし始めました。その後は、どこでお弁当がもらえるか、どこでお水を配っているなどの情報や、例えば、車椅子の人でも入れるお風呂屋さんはないか、どこどこの老人ホームや養護学校でおしめがなくなってしまったらしいという情報があれば、全国から紙おむつがそこに何千枚と届けられたというようなこともありました。つまり、わたしたちの仲間は、たいへん重い障害をもっていたにもかかわらず、あの震災のあと、まだインターネットではない、パソコン通信の時代において、情報のボランティアをはじめたわけです。いまでこそパソコンボランティア、情報ボランティアというのは当たり前に言われており、全国組織といったものもありますが、出発はこれでした。たいへん重度で家族の介護を受けているような人たちが、震災直後にベッドから情報を発信して、人と人との情報をつないだり、あるいは物資で応援しようとしたりしていきました。これは、チャレンジド、わたしたちは向き合える、向き合う力がたくさん与えられているというこの言葉に励まされたということが大きかったわけです。こうしてわたしたちは、差し障るという意味の、「障」の字も「害」の字も使わずに、チャンレンジドという言葉を使っていこうということを決めました。
キャッチフレーズを「チャンレンジドを納税者にできるニッポン」と掲げた途端に、多くの人から反論がありました。特に福祉の世界の方々や同じような障害者の仲間からも多くの反論を受けました。それは、福祉というのは、国からいくら税をとってくるかであり、困っている人たち、状況のために、税からいくらとってくるかというものであり、よい福祉のリーダーというのは、それをより多くとってくる人である、というものでした。障害者に税を払えというのは福祉ではない、と言われました。
私が、このキャッチフレーズを使うようになったのは、ある一冊の書物から影響を受けています。それは、ADA法の制定プロセスが書かれた本です。ADA法は、15年前にブッシュ元大統領が、大統領選挙の公約に掲げ、当選後に制定された法律です。その本には、「チャレンジドをタックスペイヤー(納税者)へ」、もちろん、当時はアメリカでもチャレンジドはまだ一般的ではなく、ハンディキャップドだったわけです。でも実は、ケネディ大統領が、大統領就任後はじめて議会に提出した教書の中で、この考え方を述べていたことが分かりました。ここから、さまざまな法整備がなされ、ADA法ができ、今日につながっているわけです。
何故ケネディが、「すべての障害者を納税者にしたい」としたか、背景を調べると、ケネディ家には、障害者の親族がたくさんいたことが分かりました。特に、ケネディが一番愛した妹のローズマリーさんも、非常に重い知的ハンディを持っていました。そのローズマリーを励ましたり、楽しく過ごすためにケネディ家とその仲間たちがデイキャンプを行っていたわけですが、そこに人々が集まるようになり、スポーツなども行われるようになり、それが今日のスペシャル・オリンピックス、世界大会にまで発展した原点でもあります。
つまり、ケネディは、自身の実体験・実感から、教書の中で、すべての障害者を納税者にしたいとしたわけです。アメリカの自由主義経済・資本主義経済の国家において、障害を持つという存在が、どのように卑下され、低いレベルの人間として位置づけられているかということを彼は、経験的に知っていました。障害があるから働けなくて当たり前だとか、タックスペイヤーになれなくて当たり前だとか、税から恩恵を受けるだけの人だとか、そういった考え方が差別なのだ、それが差別の始まりなのだと。だからこそ国家は、彼らをタックスペイヤーにするという意思を持たなければならないのだとして、議会に提出する教書の中で書いたわけです。
それを知ったときに、私は目からうろこが落ちました。日本では、障害者はできないから不幸だとか、体が悪いからかわいそうだとか、そういった親切や同情や保護、あるいは予算の補填によって、手助けをしてもらう立場の人だという考え方がなされています。親切や同情心は決して悪いことではないし、人に親切にしよう、あたたかい気持ちを持つというのは、非常に尊いことです。しかし、着目するのがその人のマイナス面だけ、自分よりも劣る、自分よりも可能性が低い、といった部分だけに着目して、そこから出発した福祉の結果が、現在の日本の現状であるわけです。
戦後教育においても、障害を持つ人が分離される、義務教育の猶予免除を親が願い出るといった法律からはじまりました。昭和54(1979)年に、ようやく猶予免除制度をなくす、障害を持つ子どもも義務教育を受けることができるようにしようとしたわけですが、残念ながらその時は、分離した「特殊教育」の義務化ということになりました。これが特別支援教育へと変わり、地域の学校で障害を持つ子どもも持たない子どもも共に学ぶということが大前提として、必要に応じて医療などのサポートを受けるというようになったのが、つい最近です。2001年の省庁再編の時なので、まだほんの数年しか経っていないわけです。
そういう意味で、日本ではまだ、障害者は気の毒な人、かわいそうな人だから、何かしてあげなければならない、という状況なわけです。その結果、例えば教育の分離においても何がおきたかというと、アメリカでは、先述のようにケネディ大統領が宣言し、そして、ブッシュ元大統領がADA法を作り、特に教育において共同教育、統合教育ということで非常に大きな力をつぎ込んだわけです。義務教育や小中高だけではなく、高等教育、特に大学教育においても力を注いでいます。今のブッシュ大統領は、アメリカをユニバーサル社会にするための構想をニュー・フリーダム・イニシアティブ(自由への新たな取り組み)として宣言しているわけですが、その中の教育、大学教育において全米すべての大学に在籍している学生のチャレンジドの比率を10%にしようという目標に掲げています。10%というのは、ほとんど、ありとあらゆる障害層の人たちが、なんらかの形でコミュニティー大学であれ、私学や公立であれ、大学の教育が受けられるようにしようという制度を掲げていることになります。現在、取り組みが進んでいるワシントン大学では7%になっています。全米平均はまだ、残念ながら4〜5%というものです。
翻って日本は何パーセントでしょうか。0.09%です。つまり、わたしたちは、気の毒だ、かわいそうだから、手助けしてあげようとしているのですが、同時に他方で、障害者を気の毒なかわいそうな場所においやっているのも、わたしたちや日本社会の現実であるわけです。わたしたちはチャレンジドという言葉で、非常に励まされてきました。言葉の置き換えは非常に重要で、まさに言葉というのは、文化であり、思想であり、その国の哲学でもあります。そして、言葉というものが、非常に重要であるがゆえに、逆に、自由や権利、義務といった言葉についてもっと議論されるべきであろうと考えています。こういった場で、議論が行われるということで、私は非常に関心を持って、今回参加させていただいています。
日本では、残念ながら、税でなにか手当てしてあげるという意識が強くあります。アメリカでは40年前、ケネディが大統領になった頃から、それを変えていこう、国是そのもの、福祉、人の尊厳というものに対する考え方を切り替えていこうとしたわけです。スウェーデンでも同じ時期にそういった考えが起こりました。日本では、弱者というのがいるのだ、弱者というのがいるのだから、みんなで手当てしていこうというのが福祉であるわけです。しかし、スウェーデンもアメリカも、40年前に、弱者に手当てをするのではなく、弱者を弱者にしない、社会のメインストリーム(主流)に引っ張り上げる、この作業を福祉と呼ぼうということに、国是を変えていったわけです。
私は日本でも、国是を変えようと思えば40年もかからずにやれると思い、15年前から、上記のようなキャッチフレーズを掲げました。日本では、障害を持つ人が働くことを応援する法律は、障害者の法定雇用率の義務化という法律ひとつしかありません。旧労働省が昭和34(1959)年に作った、この法律しかありません。これは、企業がある一定数以上の社員を採用・雇用しているときに、その雇用のポイント、今は1.8%の障害者を雇用することを義務付けるというものです。もし、義務が果たされてないとき、未達成の企業は納付金を支払うという法律です。これだけしかないわけです。この法律が対象としている障害者というのは、少なくとも企業に通うことができる、あるいは最低賃金法や最低就労時間の枠の中で、1週間20数時間働くことができる、あるいは職場で全面的な介護がいらないなどが条件であるわけです。つまり、職場で介護が必要だったり、1週間職場でコンスタントに20数時間働けなかったり、通えなかったりする人というのは、すでに働くという枠からはずされていることになります。先ほども言ったように、教育も、高等教育や学歴がもてる教育、切磋琢磨しながら自分で周りの人と一緒に学力を高めていく場におれない、という状況が厳然とつくられており、なおかつ働き方についてもすごい枠がはめられてしまうといった状況です。
わたしたちが、なぜITを使い出したかということについては、全国のたいへん重度といわれているチャンレンジドたち自身が、声をあげたからです。そんなに多くの人たちではなく、百数十人ぐらいのメンバーで、全国各地の家族の介護を受けていた人たちが、自分たちはたいへん障害が重いけれども、自分たちだって働きたい、自分で収入を得たい、と言い出しました。これからの日本で、社会に役立つのはおそらくコンピューターだということを彼らが言いだしたのです。15年前の当時、コンピューターは一般的ではありませんでした。しかし、一般家庭にはないけれども、コンピューターという道具を使えば、自分たちは働けるようになると、考えたわけです。自分たちが働きたいと思うがゆえに、いろいろ情報を調べ、コンピューター、今ではパソコンを中心に、自分がいる場所で使うことができれば、できあがったプログラムも、ネットワークで送れると。つまり、仕事場にいくのは無理でも、仕事をこちら側に来させることができるではないかということを、まさに彼ら自身が発見したわけです。
そこで、わたしたちは一緒にグループをつくり、親切にしようとか手助けをしようというのではなく、コンピューターという科学技術を使って働きたい、自分の力を外へ出していきたい、そのために皆でコンピューターの勉強をしていこうと、活動を始めました。
当時、コンピューターは非常に値段が高く、ボランタリーに集っていたわたしたちには当然お金がありません。そこでコンピューターを開発している会社や技術を持っている会社に、直接掛け合っていこうとなりました。誰が掛け合うかといえば皆が、それはあなただと。私は、コンピューターの技術はまったくなく、勉強もできないのですが、口と心臓だけはギネスブック級だと言われました(笑)。そして、あなたが、しっかりと話をして、道具と技術を揃えたら、自分たちは必死に勉強して働いて、社会に貢献すると、彼らは言うわけです。私は、その言葉を受けて、コンピューターを作っている企業や技術を開発している企業に説得に行きました。そこでは絶対に、「ここに障害の重い、気の毒でかわいそうな働けない人がいるから、彼らのために協力してくれ」ということは、言いませんでした。なぜなら働くということは、義務や権利という言葉ではなく、自分で自分を支えようとすることであると同時に、自分も社会を支える一員になろうとすることだからです。今まで、この人たちはすべて受け身なのだ、支えられているだけなのだと、社会の全員が思っていた人々が、働きたい、自分も社会を支える一員になりたいと言い出しました。これは、非常にすごいこと、尊いことだと思いました。その尊いことを言い出した人たちに、同情でお金や物を恵んでもらうということには、私は絶対にしたくありませんでした。それで、私は企業の人々に説得する時には、わたしたちが開こうとする勉強会から絶対に、あなたの会社がほしがる人、必要な仕事を立派にやり遂げる人がでてきます。あるいは今後の高齢社会で、目が見えにくくなったり、手が震えたり、聞こえにくくなったりする人が増えてくる時代において、コンピューターがどのようにつくられれば、使いやすいか、シェアが拡がるかなど、自分の体をはって証明する人々が絶対に生まれてきます。だから同情ではなく、先行投資をしてくれと、お願いしていったわけです。
おかげさまで、当時、コンピューター業界は、Windows95もない黎明期でした。マイクロソフトもそんなに大きくなかった。その黎明期に起こったベンチャーやIT業界のトップは、皆20代や30代でした。コンピューターが、どれだけ人や社会に広まり、より生活をしやすい社会となるのだろうか、そういった時期にITに取り組んでいた人々が台頭し始めていた時代です。おそらく福祉関係でビル・ゲイツに会っているのは私だけだと思います。そういったすべてのIT業界の人々が、この考え方に共鳴して、面白いと興味を持っていただき、先行投資は企業として当然すべきであると、応援していただきました。
阪神・淡路大震災の後、パソコン通信からインターネットの時代になりました。そして、ネットワークがより広がり、国内だけではなく国際的にもつながるようになりました。それによって、アメリカやスウェーデンの状況も分かってきたわけです。チャレンジドたちの言葉では、コンピューターは、単なる道具ではなく、「人類が火を発見したのと同じような道具である。これによって自分たちは人間になった」と感じるほどにすごい環境となっています。しかも、コンピューターは、はじめは身体障害の方が使っていましたが、ソフトウェアが発達して、現在プロップ・ステーションでは、重度の障害者の方や、知的のハンディの方、精神の障害の方、皆さんがコンピューターで、自分の絵画的能力や音楽的才能、文章の能力などさまざまな力を世の中に発揮するようになっています。
わたしたちは、草の根で生まれた団体でありましたが、震災後に法人格を得ることができました。しかも社会福祉法人の法人格を得たわけです。ちょうどNPO法人を作ろうという運動が日本で起こっていた時期ですが、わたしたちは、彼らが本当の意味で、ビジネスマン・ビジネスウーマンになっていくことを求めましたので、仕事を発注してくれるところと、しっかりと契約の交わせる法人になりたいと考えました。当時、法人は、財団法人と社団法人、社会福祉法人の三つの種類がありました。財団法人は、何億、何十億のお金で運営するイメージでした。社団法人は、友好的な業界団体といったものでした。ということで、残った社会福祉法人だということで申請したわけです。いわゆる福祉の人にとっては、団体が社会福祉法人となって「あがり」となりますが、わたしたちは消去法で、社会福祉法人を選んだわけです。当時コンピューターが広まりかけていたということもありましたが、旧厚生省が英断し、わたしたちを日本で初めてITを活用した社会福祉法人、しかも大臣認可、全国展開できる社会福祉法人として認可しました。ただし、皆ITでバーチャル(コンピューター・ネットワーク上で仮想的に)につながっているので、施設の運営はしません。「二種の社福(第二種社会福祉法人)」ということで、認可をしてくれた旧厚生省は1円の補助金もくれるわけではありません。私は、NPOというものを、自分たちの課題を自分たちで解決するために、自分たちで営利を第一義的目的とせずに活動していくグループと解釈をしていますが、そういう意味で、完全なNPO、その出発、はしりでもあったように思っています。
それと同時に、旧労働省、いまの厚生労働省に研究会を立ち上げ、最重度で在宅の介護で受けているような人たちも働けるような、それを後押しするような法律を作ろうということで、研究を行ってきました。6年間議論をつづけ、去年の夏、昭和34(1959)年にできてから一度も根幹の変わることのなかった、障害者の法定雇用率制度を変えようという結論をだしました。それは通勤ができる人、一定以上働ける人、介護がいらない人だけではなく、どんな条件を持った人であっても、さまざまな働き方ができるように、制度を変えていこうというものです。
そのなかの一つは、法定雇用率の未達成企業が、反則金ではなく、仕事を出せるようにしようというものです。これは簡単なようで、法改正の中でもっとも難しかったことであります。なぜかというと、この企業が払った反則金だけで法定雇用率の制度が動いていたからです。つまり達成企業が増え、反則金が減ると、ポイントを上げるという、実に姑息なやり方をしていたわけです。ここにわたしたちはきりこんだわけです。反則金のかわりに、仕事をだすと。法律の運営はどうするんだ、とたいへんな大騒動になりましたが、6年間研究を続け、去年の夏に、そういった結論を出しました。法定雇用率制度の根っこを変えよう、多様な働き方ができる、仕事がでてくる。働く場所は家でも施設のなかでも、ベッドの上でも、働く意思をもった方のところへ仕事がいく、そういった制度をつくるということで、結論をだしました。
現在、尾辻さんという方が、厚生労働大臣になられていますが、たまたま尾辻さんが財務省の副大臣をしていたときに、私は財政制度委員の委員でもありました。委員会にでるたびに「チャレンジドの納税者にするニッポンにする」と一人で言っていました。それを尾辻さんは、聞いていました。そして、彼が厚生労働大臣になったときに、大臣室に呼ばれ「あなたが財務省の審議会でほえていた『チャレンジドを納税者に』という言葉を、自分のチャッチフレーズにさせて欲しい」と言われました。私はNPO、一民間人ですが、厚生労働大臣であるあなたが言うとたいへんな影響力がありますけれど、本気でやる気はあるのですかと尋ねたところ、本気でやると言われました。それでは本気でやっていただこうということで、一度、重度の障害者がどのように実際に働いているのかを見に来て、と言うと本当にやって来ました。実際にテレビ会議の仕組みも使い、全国で働いている人々と自ら意見交換などもしていきました。
そして、この法改正が、今国会にかかっています。先日厚生労働省の方が、法改正の報告をしてくださり、おかげさまで、全部の政党が賛同してくれている、障害者自立支援法という法律ですが、すべての政党が了解してくださり、今国会でおそらく成立するだろうという報告を頂きました。
では、なぜ私がこの問題に、ここまでシャカリキに取り組んでいるかというと、私には、子どもが二人いて、息子の方は、今日も会場に来ていますが、東京で私の手伝いをしています。そして、その息子の妹、私の娘になりますが、娘は32年前に、重度心身障害という重い脳の障害をもって授かりました。重症心身障害というのは、いろんな重い障害が重なっているのですが、視力も聴力も言語も身体も知能も全くの赤ちゃんのようです。視力は明るいぐらいしかわからない全盲で、ほとんどものの形がわからない。しかも知的にもたいへん重い、いわゆる重度の認知症、この間まで痴呆症と言っていましたが、自他の区別がつかない、家族の区別もつかないという、重度の認知障害をもって、生まれてから一生過ごすわけです。
30年以上前に彼女を授かったときに、そういった子どもを授かるということは、本人もかわいそう、家族もかわいそう。かわいそう、かわいそう、不幸、不幸、どん底だと言われていました。障害を持つ子のお父さんやお母さんと話をすると、「私はこの子よりも一日後に死にたい」と全員が口をそろえて言います。どういうことかというと、残して安心して死ねないということです。それから30年。社会はどうなったか。残して安心して死ねるようになったかというと、ますます安心して死ねるようにはならなくなりました。今の社会保障の状況や少子高齢化の進み具合をみると、ますます安心して死ねなくなったというのが、多くの障害を持つ人たち、あるいはその家族の声であるわけです。私も、ご多分に漏れず同じ気持ちです。
しかし、自分が安心して死ねないから、困った。困ったからわたしたちのために税からもっと手当てを出してくれという運動だけでいいのか、と思うようになりました。多分違うでしょうし、はっきり言えば、もう税からは出てきません。私が安心して死ねるとしたら、福祉の人たちだけではなく、日本中でさまざまな仕事をしている、いろんな分野で活躍をしている人々が、同じ日本人として、障害を持つ人が社会に生存していてもいいではないか、当たり前ではないかと考え、同時に、そういった人たちが生きていけるように皆で少しずつ負担しようという意識を、みんなに持って頂くことしかありません。これが高齢者の介護に当てはめられたのが介護保険制度という仕組みです。しかし、障害者については残念ながら、いわゆる旧来型の運動が非常に強く、介護はすべて税で、という支援費の問題がまだくすぶっている状況です。しかし、現実的に私はこのままではもたないと思っています。
自分が安心して死ぬ方法でもありますが、一人でも多くの人が、その人が持っている力を社会、世の中にだしていく、1円でも10円でもいいから税を払ってくれるような仕組みが必要だと考えました。今まで日本は、10から5ぐらいまで働ける人だけを税を払う対象にしていました。それ以下は福祉の対象と言われていた。日本では、15才未満と65歳以上と障害者は、従属人口と呼ばれています。法律の根幹は、その考え方で社会保障のすべてが組み立てられているわけです。つまり、従属人口以外の人たちの働きだけで、それを支えるという仕組みになっています。しかし、スウェーデン、アメリカ、それからEUも、こういった考え方をすべて捨てました。EUは定年制も撤廃した。アメリカも、労働者の枠から年齢を撤廃しようと2002年に決定しました。日本は未だに、この従属人口という考え方に基づいた社会保障の組み方しかしていません。だから私は、厚生労働省と同時に、財務省でもほえているわけです。根幹から考えようと。
これまでたくさんの働けないといわれていた人たちのなかで、働く意欲のある人がいるのであれば、その人の力は最大限に出していただきたいと。働く意欲のない人まで、無理やり強制するものではありません。しかし、社会的に働けないと言われているが、働きたいと思っている、働ける可能性を持った人たちの力は、全部引き出していきたいと。そのことによって、私が死ぬ前に、それが当たり前という社会となれば、もしかしたら安心して死ねるようになるかもしれないと思っているわけです。
つまり、プロップ・ステーションというのは、障害者に親切にするためにでも、やさしくするためにやっているわけでも全然なく、自分が安心して死ねるようにするための活動であるともいえます。だから、私は、自分が正義だとは思っていません。旗をたてる気もありません。ただ、共感、共鳴していただける方々がいるのであれば一緒にやっていこう。こう言うことは、私の権利だと思っています。権利というのはこういうものであろうと。つまり、自治というものがあって、権利ということを、自分ははじめて言えるのです。自治意識のないところで、権利という言葉を使うことは、非常に怖いことだと思います。この世の中の仕組みを、こうしたいと、自分たち自らが行動を起したときにはじめて、権利を持つということなのだと思います。誰か何かをやってくれ、よかれとやってくれと言うのは、権利のはき違いだと考えております。自分は、自分のわがままを通したいがゆえに、権利という言葉について、このように認識しております。
アメリカやスウェーデン、EUではじめられている、自分たちが働くという権利、タックスペイヤーになり得る権利を持っているということと、日本における、たとえば障害者の人たちが、自分たちは税によって保護をされる権利があるということとの間には、大きな違いがあると思います。今、たくさんの障害を持つ人々が、チャレンジドとして、自分たちの本当の権利、社会に貢献する権利、タックスペイヤーになる権利もあるのです。だからこそ、自分たちがもっと働いていける、しっかりとサクセスをつかんでいけるような社会、国になって欲しいと発言する権利も、彼らは持っているのであろうと思っています。長い時間になりましたが、これをもってナミネエの発言とさせていただきます。ありがとうございました。
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