台湾における憲法と日本の憲法改正論議について
陳志明(法政大学法学部兼任講師)
台湾における憲法と市民社会をテーマに報告させていただきます。台湾憲法の最も大きな問題は、とりわけ90年代に入って以降、頻繁に行われてきた憲法修正についてであります。この憲法修正は台湾の民主化、あるいは中国との関わりの中で進められてきた背景があります。本日の報告では、まず台湾における憲法の変遷とその歴史的・社会的背景をたどった上で、憲法と市民社会の関わり、東アジア規模での課題について考えたいと思います。その後、現在の日本の憲法論議に対する台湾の見方について触れたいと思います。
以下、レジュメ(「台湾における憲法と市民社会」)に沿って報告いたします。
1)台湾における憲法と市民社会
(1)蒋介石・蒋経国政権期
a.中華民国憲法の制定
台湾の憲法は正式名称を「中華民国憲法」といいます。そもそも中華民国は1911年の辛亥革命を受けて1912年に建国されましたが、それから35年経った1947年に中華民国憲法は公布されました。この憲法は中国大陸と台湾の両方に適用されることを前提として制定されたもので、前文と14章175条からなります。そして、行政権・立法権・司法権のいわゆる三権に考試権・監察権を加えた五権を行政院・立法院・司法院・考試院・監察院の五院がそれぞれ国家の最高機関として担当するという五権分立制をとっており、孫文の唱えた三民主義、つまり民族の独立・民権の確立・民生の安定をめざすという考え方に基づく五権憲法であるとされております。基本的な仕組みとしては、国家の最高意思決定機関である国民大会の下に総統と五院を置いており、総統の権限はそれほど強いものではありませんでした。
b.国共内戦と戒厳令
1945年に台湾が日本から解放されて中華民国へ編入されましたが、このことは始めのうちは台湾の人々に歓迎されていました。ところが、1945年から国民党政権と共産党の内戦が始まったことでインフレが進み、また北京語が公用語とされ、さらに省籍矛盾と呼ばれる少数の外省人、つまり大陸出身者による本省人、つまり台湾出身者への支配が行われたことによって本省人の間に外省人への不満が高まり、1947年についに台湾で2・28事件が起こりました。これは闇タバコの取締りでのトラブルがきっかけとなったのですが、犠牲者は2万人から3万人に上ったとされています。その後内戦で共産党が優勢に立つと国民党政権は1948年に「動員戡乱時期臨時条款」と称する修正条項を公布して憲法に制限を加え、総統に非常大権を与えました。
さらに1949年には台湾省に戒厳令がしかれました。これによって以後、白色テロと呼ばれる政治的弾圧が行われることになります。そして1949年に内戦に勝った共産党が大陸に中華人民共和国を建国したため、敗れた蒋介石総統ら国民党政権は中華民国の首都を臨時で台北に移して台湾に逃れました。こうして憲法が事実上、台湾本島・澎湖諸島・金門島・馬祖島のみに適用されることになったわけです。1950年の朝鮮戦争によるアメリカの台湾海峡中立化声明で中台分治の状態は固定化され、以後互いに正統性を主張しつつ、中国は台湾解放を叫び、台湾は大陸反攻を叫ぶようになりましたが、ただし一つの中国という認識は共通していました。
1958年に中国が金門島へ砲撃を加えて以来、中台の砲撃戦がしばらくの間行われましたが、1971年に国連代表権が台湾から中国に移って台湾が国連を脱退し、さらに1972年に日本と、1979年にはアメリカと相次いで断交したことによって、国際的地位の高まった中国が平和統一を謳う「台湾同胞に告げる書」を発表して、中台の砲撃戦は終了しました。その後中国はケ小平による「一国二制度」構想や、原則平和統一・独立すれば武力行使という方針や、三通すなわち直接の通商・通航・通信の推進といった対台湾政策を固めていくのですが、これに対して台湾は三不政策、つまり交渉せず・接触せず・妥協せずという対中政策を貫くことになります。ただ、台湾内部では国際的地位の低下を埋め合わせるために、一定の範囲で本省人の政治参加が認められるようになり、この時に後の総統である李登輝さんも政界入りしました。
1975年に蒋介石総統が死去し、1978年に蒋介石の子である蒋経国総統が就任すると、60年代からの経済成長を背景とする民主化の要求が高まり、党外とよばれる反国民党勢力が現れました。この党外に対して国民党政権は弾圧を加え、後の総統である陳水扁さんも関わった美麗島事件という事件も起こりましたが、党外の勢いは止められず、1986年に党外が民進党を結党したのを受けて、1987年に戒厳令は解除されたのです。
(2)李登輝政権期
a.民主化と憲法修正
1988年に蒋経国総統が死去したのを受けて李登輝副総統が総統に昇任しましたが、彼は初の本省人総統であったために、蒋経国前総統の残任期間で政権・党内での足固めをする必要がありました。1990年3月に国民大会で李登輝さんが次期総統に選出されると、彼は台北で行われていた民主化デモに対して民主化を約束します。同年5月に李登輝さんが総統に正式就任すると、同年6月には「国是会議」を開き、そこでは国会改革・地方自治制度・中央政治体制・憲法修正・大陸政策と両岸関係といったテーマが話し合われたのですが、憲法修正については台湾のみを統治しているという実状に合わせるために憲法修正を行うものとされました。これを受けて1991年4月に第一次憲法修正が行われ、さらに同年5月には動員戡乱時期臨時条款が廃止され、憲法が復活したのです。これは事実上中国を認めて内戦終了を宣言するものでした。またこの憲法修正によって、かつて大陸で選出されて以来議席を占め続けていたいわゆる「万年国民大会代表」や「万年立法委員」も辞職することになりました。次いで1992年には第二次憲法修正、1994年には第三次憲法修正が行われ、総統を国民の直接選挙で選出することが定められました。
この憲法修正に従って1996年3月に初の総統直接選挙が行われ、54%の得票率で李登輝さんが選出されました。同年5月に李登輝総統が再任されると、同年12月には「国家発展会議」を開き、そこでは憲政体制と政党政治・経済発展・両岸関係といったテーマが話し合われました。ここで最大の問題となった省の凍結問題に関して、宋楚瑜台湾省長(当時)が李登輝総統と対立し、国民党を追放されてしまいます。この国家発展会議を受けて1997年に第四次憲法修正が行われ、省は凍結されましたが、このときの李登輝さんと宋楚瑜さんの対立による国民党の分裂が2000年の総統選挙に影響を与えることになりました。すなわち、2000年3月に総統選挙で民進党の陳水扁さんが選出され、初の政権交代が起こったのです。その得票率は39%でした。その直後には宋楚瑜派が親民党を結党しています。
そして同年4月には第六次憲法修正が行われ、国民大会が非常設化されています。この憲法修正により、国民大会を頂点とする五権憲法が事実上終焉したという意味で過去最大の憲法修正と言われました。なお、その前の年である1999年には第五次憲法修正が行われているのですが、憲法修正権を持つ国民大会代表が自らの任期を延長するために行ったいわばお手盛りの憲法修正であり、後に憲法裁判所に当たる司法院大法官会議によってこの第五次憲法修正は無効とされました。そしてこれが、翌年の第六次憲法修正における国民大会非常設化のきっかけとなったのです。
b.新台湾人意識の確立
こうした李登輝政権の時代における一連の民主化によって本省人の政治参加が進んで、中華民国が台湾化あるいは本土化することになりました。そして長い間に外省人も台湾に溶け込んでいったことで、台湾人の範囲が本省人だけでなく外省人も含むことになり、それを指して新台湾人という概念も生まれました。このことは教育や言語にも影響を与え、例えば中学校の歴史・地理・公民で台湾中心の授業が行われるようになり、また公の場での台湾語の使用が解禁されたのです。
(3)陳水扁政権期
a.全民政府から民進党少数政権へ
2000年5月に総統選挙の結果を受けて陳水扁さんが総統に就任しましたが、その際の就任演説におけるいくつかのポイントを挙げれば、まず平和的政権交代は民主の勝利であるとして李登輝前総統を賞賛した上で、その李登輝さんも実現できなかったクリーンな政治の実現を謳っています。そして民進党政権ならぬ超党派の全民政府を作るとしています。さらに善意による中台の和解を目指すとしています。この演説通り、陳水扁さんは国民党の外省人唐飛さんを行政院長に迎えて全民政府を組閣したのですが、秋になって浮上した「第四原発存廃問題」がこの全民政府を揺さぶることになります。
第四原発は台北近郊に建設中の台湾では4基目に当たる原発ですが、そもそも民進党は建設に反対で、それに対して国民党など野党は建設に賛成だったために、陳水扁総統と唐飛行政院長の間に対立が生まれ、同年10月に唐飛行政院長が辞任してしまいました。その後民進党の張俊雄さんが新しい行政院長に就任したのですが、まもなく彼が原発建設の中止を発表したために野党の猛反発にあい、ついに同年11月には野党が陳水扁政権の打倒を叫んで政局が大混乱することになりました。この原発問題は翌2001年にもつれ込み最終的に政府が矛を収めて幕引きとなりましたが、これにより政治的には陳水扁政権が全民政府からただの民進党少数政権になってしまったのです。
また経済的には、原発問題による混乱やIT不況のあおりで台湾経済が目に見えて低迷するようになり、さらに中国との経済的緊密化による産業の空洞化も手伝って失業率が上昇しました。しかし少数政権では野党に阻まれ有効な対策は採れず、公約であるクリーンな政治の実現は汚職摘発などである程度進んだもののやはり不況対策を求める声は強かったのです。
この政治的停滞を打開すべく2001年8月に結党されたのが、李登輝前総統を中心とする台湾団結連盟、略して台連です。ただこの政党はもっぱら「台湾優先主義」を掲げて政界再編の起爆剤になろうとするものだったため、当初はむしろ三通の推進など中国との一層の経済的緊密化による景気回復を謳う国民党、親民党といった親中国派政党に、特に財界を中心に一定の支持が集まっていました。
しかしその後、政府がそれまでの「戒急用忍」政策から「積極開放、有効管理」政策、つまりセーフティーネットを張った上で積極的に中国との経済交流を進める政策に転じ、さらに民進党が台湾独立を事実上棚上げにしたことで安心感が生じ、一転して民進党、台連といった本土派政党に支持が集まるようになっていきました。この流れのまま同年12月に立法委員選挙が行われ、その結果民進党・台連・親民党が躍進し、民進党は初めて第一党になりました。対して国民党と新党は惨敗し、親民党を除けば本土派政党の躍進、親中国派政党の惨敗という結果となったのです。ただ、本土派政党つまり与党側と親中国派政党つまり野党側は議席数がちょうど拮抗する形になったため、それ以降与党側主導で国民党を分裂させる政界再編、さらに多数を占める連立政権樹立を目指す動きが断続的に見られたのですが、これは民進党内の路線の不統一もあって結局成功せず、むしろ野党側が結束を強め、与野党の対立がいっそう激しくなることとなりました。
2003年9月には陳水扁総統が、2006年までに新憲法を制定して「中華民国」という枠組みからの事実上の脱却を目指すとの方針を打ち出しました。これに対抗して野党側も、あくまでも「中華民国」という枠組みの中で新憲法の制定を目指すとの方針を打ち出し、この新憲法制定問題が、2004年の3月に行われた総統選挙や12月に行われた立法委員選挙で争点となりました。いわば「中華民国」対「事実上の台湾共和国」の戦いという様相を呈したのですが、総統選挙では陳水扁さんが再選されたのに対し、立法委員選挙では野党側が過半数を制し、まさに国論を割る形となっています。なお昨年6月には、陳水扁政権の下では初めての憲法修正となる第七次憲法修正が行われ、非常設化されていた国民大会が完全に廃止されました。
b.憲法修正をめぐる最近の動き
昨年の第七次憲法修正では、国論が統一されていない統独問題がひとまず棚上げにされ、その他のそれまでに積み残しとなっていた課題が修正の対象とされたのですが、今年に入って陳水扁総統は再び新憲法の制定を強く主張しています。
これは、野党側がここに来て中国との関係を強化していることを受け、今後の選挙とりわけ2008年の総統選挙をにらんで自らの立場を改めて明確にする必要に迫られたためと思われますが、統独問題に関しては依然として国論が統一されていないので、今後の憲法修正に関する議論においてもやはり統独問題を棚上げにしてそれ以外の課題が俎上に上るものと考えられます。具体的には、これまでの憲法修正においても中心的課題だった統治機構改革の更なる推進、特に大統領制とするか議院内閣制とするかの問題や、三権分立に移行するか五権分立を維持するかの問題、またこれまでの憲法修正では積極的には課題とされてこなかった人権保障の強化が挙げられています。
(4)憲法と市民社会、そして東アジア
台湾の市民にとって、憲法に関する最大の関心事はやはり統独問題でしょう。とりわけ、現在の与野党がこの統独問題を軸として対立しているため、選挙が行われるたびにこの統独問題は大きな争点としてクローズアップされてきています。しかし、さまざまな世論調査を見ても、市民の大部分は統一でも独立でもない「現状維持」を望んでおり、選挙結果もそれを反映して与野党が拮抗する状況となっているので、統独問題の解決が現実的な課題として認識されているとは言えません。むしろ、経済や人権といった日々の生活に直接関わる問題の解決の方がやはり現実的な課題として認識されているのではないかと思われますし、今後の憲法修正の課題に人権保障の強化が挙げられていることもそのことを反映しているのではないでしょうか。
東アジア規模での課題としては安全保障、経済交流、環境保護、人権保障などさまざまなものが考えられますが、台湾で具体的に浮上した問題の例としてSARS(重症急性呼吸器症候群)や鳥インフルエンザといった伝染病への対策があります。特にSARSに関しては、関係各国の間で十分に情報を交換し協力体制を作ることができなかったために被害を広げてしまった面が否めません。こういった東アジア規模での課題に対応するためには、その阻害要因となっているさまざまな誤解を除去するための相互理解と、そのための各国市民同士の交流を常に進めていくことが欠かせないのです。
2)台湾から見た日本の憲法問題
最後に、日本の憲法論議に対する台湾の見方につき述べたいと思います。
日本の憲法論議に対する台湾の最大の関心事は、やはり第9条や安全保障に関する問題です。しかしそれは、過去の歴史を踏まえて見ているというよりは、あくまでも現在の台湾の安全保障にとって日本がどう関わるか、という視点から見ています。先ほど述べたように、台湾の中には本省人と外省人という二つのグループが存在しており、外省人は大陸から渡ってきた、つまりかつて中国人として日本と戦った人々で、一方本省人は日本人として戦った人々です。過去の歴史に対する見方では、お互い違う立場にあり、例えば靖国問題などについても両者の考え方は微妙に違っています。従って、歴史的な視点から見るよりは、現在の台湾の安全保障に対して日本がどのような役割を果たすか、という視点から見る傾向が強いと言うことができます。ただしそれは当然、特に専門家を中心とした、日本の憲法論議に関心を持つ人々について言えることで、一般の市民レベルで日本の憲法論議に関心を持っているかというと、圧倒的に情報が少ないということで、そうとは言えない状態です。
もっと憲法問題について、例えば日本側から国内でどういった議論が行われているかという情報を公開し、お互いに意見交換ができる場を作っていくべきではないでしょうか。さらにはもっと前の前提として、より多くの一般的な市民どうしの交流が必要です。かつては、例えば日本の統治によって日本語が話せるお年寄りの世代がいたり、あるいは国民党と日本の自民党とのパイプがあったりするなど、日本と台湾のつながりがありました。しかし現在の台湾では、特に若者の間で、そういった具体的な日本とのつながりを感じることができず、日本よりもアメリカの方にむしろ親近感を感じる人々も多くいます。ただ、台湾の若者の中には、ハーリー族と呼ばれる、日本の文化に関心を持っている人々もいます。そういったところから、若い人々の間でも交流を進めていく機会がさらに増えていくことが望まれているのではないかと考えます。
【当日配布資料】 レジュメ
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