第1部 質疑応答・議論
江橋崇(法政大学法学部教授)
それでは、これまでのお三人のご報告を受けてのディスカッションを行っていきたいと思います。
まずは、今日の日本では、東アジアの憲法問題に関しては最も優れたご研究をなさっている稲正樹さんに感想を含めてのコメントをお願いし、続いて、2004年の市民立憲フォーラムの発足企画にもご参加いただいた経済同友会憲法問題懇談会前委員長の高坂節三さんにもご意見を伺えればと思います。
コメント/稲正樹(国際基督教大学教授)
それでは簡単に、いまご報告いただいた内容について、感想を述べるという形で、皆さまとのディスカッション、討議の口火、参考となるようコメントをさせていただきたいと思います。
現在の日本の憲法については、とりわけ平和主義、第9条ということが改憲論議の焦点となっています。憲法は、誰がつくったのかという議論もありますが、やはり日本が起こした戦争ということを考えると、アジアに対する不戦の誓いという側面があったのではないでしょうか。戦後60年間、その不戦の誓いとしてずっとやってきたことを、今後、わたしたち主権者はどうするのか、ということだと思います。本日の三人からの報告のほか、黙ってみているASEANの国々からも、日本がどこに向かおうとしていうのか、ということが問いかけられているような気がします。主権者である日本の国民が決めることですが、それは同時にアジアの問題でもあろうと考えています。
朱さんはご報告の中で、「リーダー」と「人々」の二つに分けてお話しをされていました。そして中国を実際に動かしているリーダーたちは、日本の改憲はありうると見ている。と同時に、日本は危険な方向には行きそうもない、シビリアンコントロールも含め、評価してもらっているとのことでした。しかし。果たしてそれはどうなのか、ということが気になりました。
その一方で、お話になられた一般の人々のナショナリズムの問題をどう考えるのか。ナショナリズムは、歴史の問題や現在の国力の問題、グローバル化にもとづく情報化の問題などがセットになって出てくることになります。その意味でも、現在日本の首相がどんどんアメリカの方を向いている中で、アジアの国々のナショナリズムと、日本のナショナリズムの高まりの相互関連性について、どのように考えるのでしょうか。
韓国は、経済や民主主義、市民社会ということについて、日本をすでに追い抜いている状態のように思います。象徴的なことは、定住外国人の地方参政権の問題です。日本ではそれが憲法上許容されるという最高裁判決が96年に出されましたが、その後、まったく実現していません。韓国の市民社会が成熟している中で、日本は何を投げ返して行けるのか、ということを感じました。
コメント/高坂節三(経済同友会憲法問題懇談会前委員長)
今日は勉強しにきたつもりでしたが、ご指名という事で少しだけお話させていただきます。
経済同友会が憲法問題をとりあげてから5年になります。経済同友会メンバーの意識調査で、いまの憲法に不自由を感じるかということに対して、9割を超える人が不自由を感じていることがわかります。そして何が一番問題かということには、これまた9割を超える人が、憲法第9条が問題だとしております。これはいわゆる市民社会のレベルの認識とはずいぶん違うのかもしれません。違うかもしれませんが、ではなぜ経済界がそうかというと、やはり世界に出て行き、いろいろなところで問題に遭遇した際に、十分な返事ができていないということからだと思います。
わたし自身も、部下がフィリピンでの人質事件に遭遇するなどいろいろな苦労がありました。やはりもう少し日本の政府がはっきりした方がいいと思っています。例えば、善し悪しを別にして、インド洋までイージス艦を派遣しながら、集団的自衛権の発動ではないと言っていることや、イラクに自衛隊を派遣しながら、非戦闘地域に派遣していると言っていることがあります。では非戦闘地域とはどういう地域かと尋ねると、自衛隊のいるところだという回答がくる。論理矛盾があまりにも大きすぎて、外国の人々に十分に説明しきれません。あるいは小学生や中学生が理解するにも、いまの憲法と現実には差がありすぎます。先ほど朱さんもおっしゃられましたが、「日本はどこにいくのか」ということについて、憲法で決めていることと実態が違っているのではないでしょうか。
そこで問題は、憲法に合わせて実態を変えるのか、実態にあわせてある程度憲法を変え、ここまでしかやらないと規定するのか、どちらがいいのかということになるかと思います。先ほど稲さんのお話にもありましたが、「不戦の誓いだから憲法を残すのだ」という気持ちはわかるので、「第9条の第1項を変えよう」との意見は経済界でもほとんどありません。現実に即して、事実とあまりにも違うところを直すということです。そして日本はこういう方向へ進むが、自衛隊はこの範囲でしか使わないということを規定した方がいいのではないか、というのがわたしたちの考えであることをまず申し上げたいと思います。
次に、本日のお話を受けてのコメントをさせていただきます。まず朱さんの話は、いろいろなところでお聞きしており、日本のこと、中国のことを理解され、いつも中立的なお話をされていると感じておりますが、いま稲さんがお話になられたことと同じような疑問を感じます。朱さんは、中国の統治者と一般市民の考え方が、違ってきているのではないかといわれましたが、例えば去年の上海事件の後、反日の行動がピタッと止まったのは、やはり上がコントロールしているからではないでしょうか。また、例えば日本だと、小泉さんの後どうなるのかということは、うるさいほどマスメディアが騒いでいます。しかし中国で胡耀邦さんがどうなっているのか、江沢民さんとの関係がどうなっているのか、あるいはその後どうなるのか、といった話は全然日本には聞こえてきません。やはりわたしたちとしては、一党独裁がどちらに転ぶのかということが怖く、漠然とした不安感は否めません。ITが進み、本当に市民社会がものを言えるのか、多少疑問に感じています。
また、韓国に関しては、呉さんのご報告を受けて、稲さんもコメントで成熟しているとおっしゃいましたが、非常に難しい問題で、ITが進み過ぎ、世論が大きくぶれていく可能性はないのでしょうか。操作とはいわないまでも、ナショナリズムを利用して国民の意識を変えていく、これは日本でも懸念があると思いますが、これからのIT社会で、情報が非常に極端にぶれていくという可能性はどの国でも持っています。それを互いにどうコントロールするかということを、互いに考えていく必要があると思います。
そして台湾の問題については、陳さんのご報告にもあったように、複雑な歴史があるのでわたしたちは同情的です。とりわけ京都大学で勉強した李登輝さんに対する心情的な理解と、本当の台湾というものが一致しているのかという疑問もあります。
最後に、ロンドン・エコノミストが最近書いていたことですが、中国の国民意識調査で、富の偏在、豊かな人と貧しい人の差をどれだけ感じるかという質問に対して、どこまで調査したかはわかりませんが、「98%の人が中国は不平等社会であると感じている」ということでした。それに関しては、アメリカですら3分の2ぐらいでしたので、そういった意味でも、果たして本当に、憲法に書いてあるほど人民の国家となっているのか、という疑問は否めません。
江橋崇(法政大学法学部教授)
おふたりのコメント、ありがとうございます。これから様々な角度から、東北アジアにおける立憲のあり方について市民の視点から見ていきたいと思います。その際に、思い切った発想の転換があってもよいのではないかと思います。憲法を決めたとしても、例えば日本のようにずるずると解釈を拡張していって、結果として、わけのわからないことになっている国もあります。法律や憲法のありかたはこういうことでよいのだろうか、という観点です。こういったことが果たして中国で起こるのか。韓国ではどうだろうか。台湾はどうか。拡張解釈とか、解釈改憲という手法の是非もお聞きしたいと思います。
次に、韓国は憲法をつくるとき、日本の真似をしていた部分があったのではないでしょうか。その韓国がすでに日本を越えて、真似ではない韓国の憲法に発展しているのでしょうか。先ほど高坂さんもおっしゃいましたが、韓国の場合には、特に、直接民主主義万歳という制度になると、何かの拍子に極端に暴走する危険性が強くて、日本から見ていると怖くてしょうがないのではないかという側面もあります。もう少し安定的な制度にした方がよいのではないかという問題提起です。
実は、日本でも最近では、民主主義を間違えたのではないか、という反省があります。杉村太蔵さんが議員になるような選挙をしてしまった自分たちに呆然となりました。90年代ぐらいまでは、ひょっとしたら選挙を通じた政権交代で中道政権や革新政権ができるかもしれないという希望があったので、国民主権だ、選挙で正確に世論を代表させろということに憲法学の力点がありました。最近では、世論はあぶない、ということになった途端に、議会制民主主義ではなく、今度は、裁判所によって国家をコントロールする立憲主義が大事だということになっており、直接民主主義や民意を聞くことに対しての懐疑が起きてきています。
朱建栄(東洋学園大学教授)※
重要なテーマが出されたので簡単に補足し、お答えしたいと思います。日本の憲法第9条が、まさに戦後の不戦の誓いであり、戦後日本がたどってきた平和の道の象徴であるとの見方は本当です。親日の中国人の多くがまさに平和憲法がスタートであることを、まずは申し上げたい。
そして高坂さんがお話になったように、現実との乖離については、現実に合わせた調整ということが必要ではないかということも、理解できます。しかし、隣国、かつての侵略・植民地主義を受けた国としては、ずるずるときた現実を優先して、だから憲法を変えるという論法ではなく、これから憲法を国民が考え、改正していく、国民自身が選んでいく、ということだと思います。しかし、「日本はこれからどこへ向かうのか」ということを先に示した上で憲法の問題へ行かないと。いまイラクに行っているから、それを前提に変えていこうということになると、まさになんでもありということで、パンドラの箱を開けることになります。ここのところが、さらなる警戒感につながってしまいます。次の方向は何なのかということです。
中国指導者層は、日本が軍国主義に向かうとは思っていません。しかし彼らも内心、いくつかの懸念・不安があることは事実です。その一つ目は、いまの日本は評価するが、そこからどこにいくのかということが見えないことです。今の日本は平和な社会をつくっています。しかしいまの日本の為政者、リーダーが、かつての戦争を肯定したりしている。戦後の日本は、はっきりと戦前と区別をつけて成り立っているわけですが、為政者や一部の政治家が、戦争を肯定したり美化することで、その区別をあいまいにしています。ドイツでは、絶対にそうした道に行けない、行かせない法律があります。いまの日本では、平和憲法が唯一の戦争への砦です。そのことをしっかりと隣国に示した上で、議論すべきであるということです。
二つ目として、日本は、自分の大きさをもっと自覚して、指導者は発言すべきだということです。いま日本からは、中国が大きく見えているのかもしれないし、おびえたりライバル視したりする部分があるのかもしれません。実際に中国は急速に台頭しているが、たくさんの問題も抱えています。いまでも日本のGDPは、中国の2.5倍以上あり、日本の教育、技術力には、中国はあと30年ぐらい追いつかないでしょう。そうした中で、日本は、アメリカの軍事力を支えるほどの大きな技術力を持ちながら、指導者があまりにも軽い発言をしています。かつて日本の指導者がそういった発言をすれば、失脚していたような内容の発言でも、「個人の信条」だとして済まされています。しかし、例えば韓国の政府関係者が、日本に対して侮辱的な発言をしたときに、日本人は「個人の信条」だと見るでしょうか。当然、韓国政府としての見方だということになるはずです。外務大臣の発言が何度も何度も訂正されている状態であることを考えると、外部から見ると非常に不安があります。
三つ目に、中国社会は様々な問題がありますが、わたしが安心できるのは、中国は歴史上、様々な戦争、戦乱を経てきて、国民レベルで反戦ということについては、極端にぶれることがない。ある種さめた目で見ることができる土台があることは、事実だと思っています。あの毛沢東ほどのカリスマや、文化大革命であっても、熱狂したのはたかが2年だけでした。すぐに大半の中国人はついていけないと、さめた目で見ていたわけです。
それに対して、日本の社会や、その集団主義については疑問があります。消費税導入の際には皆が反対しました。しかしその後5%にするときには、皆が賛成する。PKOでカンボジアに行くときも、皆反対しました。そして国内で説明できないにもかかわらず、自衛隊はイラクに行っている。つまり今後、日本社会にバランス、健全な牽制勢力のようなものが期待できるのかという点について不安があります。
日本は民主主義の国で、マスコミ報道も自由です。しかしこれだけの情報社会において、正確な情報が選択できる状態となっているのでしょうか。例えば、先の上海での事件の際に、中国政府が指導しているとの報道がなされました。現実的には指導してないのですが、その間違った報道は、訂正されることなくそのままです。中国においても、反日的なことは非常に多く、それを集中的に報道すると、国民の反日感情が高まるので、バランスをとるようにアドバイスをしたとしています。昨年の反日デモにおいても、日本はとにかく被害者で、そのことが盛んに報道されましたが、これは事実なので、中国としては教訓とするしかありません。
しかし、同じ事件の報道ということであれば、同じ時期やその前から、大阪の中国総領事館に右翼の車が突入したり、横浜の駐在施設には発砲されたり、大使館・大使公邸にペンキがかけられたりもしています。仮に、中国においてこれらのことが、毎日報道され続けば、中国の人々はいったいどう感じるでしょうか。
竹島の問題において、日本の政府は冷静になれといっています。これはある意味では、大人の対応だといえます。しかし、相手側である韓国は、先ほどの話にもあったように100年前、どうやってこの問題ができたのかという発想に立っているのです。これを理解しながら対応することが必要でしょう。
さらに東シナ海の問題でいうと、日本のマスコミは、まさに政府の情報操作の下で、事態をあおっているということを知るべきです。当初の双方の争点は、日本が主張する中間線と、中国が主張する大陸棚の延長上ということでした。それが、今ではその外にあるガス田の問題となり、その位置が問題だとされています。一番簡単な例は、中間線に一番近い春暁の位置についてです。一昨年の段階では、主要なマスコミの表現は、外務省・経済産業省のブリーフィングによって、日本が主張する中間線から3キロから5キロ程度の距離であるとして統一していました。それが昨年では、1キロから1.5キロと表現され、さらに最近では、「春暁はこの中間線にまたがっている」と表現しています。これは政府のブリーフィングからきたものです。こうした状態では、お互いに理性的な解決には結びつかないように思います。
中国では確かに自由な報道といったものがありません。これは問題です。しかし逆に言うと、中国の国民は政府の情報をあまり信用していない。これは真実です。しかし日本の人々は、政府の情報を信じてしまう。ここに落とし穴があります。日本では、いつの間にかある一定の方向に誘導されている可能性があります。小沢一郎さんも言っていましたが、戦前の日本も、中国侵略についてはっきりとした意志や戦略はありませんでした。日本の指導者は、侵略はしないといいながら、あのような事態となっていったということです。
江橋崇(法政大学法学部 教授)
一つだけ気になっています。先ほど稲さんは、「第9条はアジアに対する不戦の誓いであった」といわれました。しかし朱さんは、中国は72年までは評価しなかったという。これでは、せっかく日本人がアジアに対しての不戦の誓いだとして第9条をつくったのに、中国人が理解しなかったということになってしまいます。歴史の真相はそうではなく、日本人は、そもそもそういう、アジアに向けた不戦ということは言ってこなかったのです。70年代後半に「第9条をアジアに対しての不戦の誓いとして位置づけよう」と言い出したのは、わたしたちでした。いま憲法第9条をアジアの不戦の誓いとして位置づけるのはよいのですが、72年以前まで遡ってしまうのは、日本は昔から立派だったといっているようなもので、気が引けます。
呉在一(全南大学校 教授)
一つお話ししたいのは、人と国家の間でも信頼関係が大切だということです。日本帝国主義の下でも、韓国人、中国人、日本人はみな被害者であったと、わたしは考えています。しかし、政府レベルでの話では混乱してしまいます。憲法第9条はいつかは日本国民の選択肢として、見直さなければならないとは思っています。しかし、その前に、なぜ第9条が入っているのかという背景をきちんと考えてから議論すべきだと思います。先ほども言いましたように、被害者と加害者の感覚はまったく違います。これをはっきりさせた上で、日本国民が選択すべきだと思います。
韓国における近代法の制定にあたって、日本の影響は大きいものでした。今でも実際に法律を制定するとき、日本の例を参考としながら具体案を準備しているのも事実です。しかし、韓国においては市民社会の力がだんだん大きくなり、憲法の改正の際、憲法の中に市民社会の概念が、日本よりも先に入るかも知れません。日本がいまどこへ向いているかという問題点については、日本は先に近代化した国として、まずは隣国に信頼感を与えるようなことが大切ではないかと思います。
ITということでは、ITが抱えている多くの問題点にもかかわらず、時代の流れに沿って、韓国では中央選挙管理委員会が中心となって、電子投票制度の導入を積極的に受け入れようとしており、その法的な根拠も成立しています。
江橋崇(法政大学法学部 教授)
盧武鉉大統領が選挙で選ばれたときには、若者が携帯やメール、ITを駆使して投票を呼びかけ、それに応じた若者の票で当選しました。日本から見るとITの影響が大きすぎて、かつ勢いもあり、その勢いがどこまでいくのかわからないという心配があります。それが今回の竹島の問題でも、大統領が何かを言うと国民世論が一気に反応するといったように、韓国の憲法政治において、市民社会の世論を大胆に政治に入れていこうというときに、安定性に欠けるのではないかという心配があります。もっとも、先ほども言いましたが、日本でも、小泉首相のシングル・イシュー化させる説明で、選挙では大勝してしまう現実があります。
呉在一(全南大学校 教授)
今回の大統領の特別談話は、世論調査を見てみると、選挙にはあまり大きな影響をあたえていないようです。領土の問題は、与野党を超える問題で、大統領の特別談話がとくに与党側に有利に作用しているとは言いにくいですね。もう一点、大統領選挙においては、携帯やメールで盧武鉉支持勢力が巻き返し、ぎりぎりの勝利を収めたのは確かなことです。しかし、これは誰でも利用できる制度や技術なので、野党も利用するようになると思います。
今日、日本に来るときの飛行機は満席で、韓国人のお客の70%ぐらいが女性でした。現在、韓国の女性は本当に活発になっています。これは日本も同じだと思いますが、今からは女性の力というものが非常に大きくなっていくと思います。
陳志明(法政大学法学部兼任講師)
高坂さんのご質問で、李登輝さんの考え方と市民社会の考え方が同じなのかということについてです。これは基本的に、李登輝さんが政権に就いていた時と、政権から退いた後とで違ってきます。政権に就いていた時には、総統という立場上、自分の立場を鮮明にすることをしませんでした。あくまで国民党主席、総統という立場で、積極的に台湾独立志向を打ち出すことはしなかったわけです。併せて、当時もまた現在もそうですが、台湾のマスコミは国民党の影響が強いので、国民党主席としての李登輝さんの考え方をマスコミとしてアピールする役割を果たしていました。そしてそのマスコミの影響を受けて、国民にも李登輝さんの考え方に共感するような考え方が生まれていきました。つまり本省人と外省人を融合して、新台湾人という考え方を作るということも台湾の国民に受け入れられていたわけです。
しかし、李登輝さんが政権を退き、陳水扁さんが総統となってからは、李登輝さんは一市民として本来の台湾独立志向を打ち出すようになりました。一方、マスコミは国民党の影響が強いままで、またその後国民党主席になった連戦さん・馬英九さんは外省人なので、基本的に台湾と中国は調和していこうという考え方を持っています。そしてマスコミもそういった考え方に沿っていくことになるわけです。
つまり、李登輝さんが一市民となって打ち出した台湾独立志向と、国民党やマスコミが主張する中国との調和、経済交流を進めようという考え方とは離れていくことになります。陳水扁さんの時代になって、李登輝さんの考え方と一般の市民の考え方は離れていると言えます。当然、新台湾人という考え方も薄くなり、かつてのように本省人と外省人の対立も出てきています。また、経済を重視し、中国との関係を深めようという認識も強くなっています。
当然李登輝さんに対する考え方は、本省人と外省人でもそれぞれ違い、統独問題に対する考え方、つまり独立なのか、統一なのか、あるいは現状維持なのか、ということでもそれぞれ違います。それによって李登輝さんに対する評価も変わってくることになります。
高坂節三(経済同友会憲法問題懇談会前委員長)
もう一つだけ。日本がどちらへ向いていくのかわからないということには、全く同感で、経済同友会でもそれについての提案書を今まとめています。5月末に発表できると思いますが、これは40代と50代の若い経営者だけでまとめています。ただもう少し上の年齢層も誰か入った方がいいという事から、わたしは二人だけいる顧問のうちの一人として加わっているので、事情は知っておりまして、いいものが出来ると思っています。
李登輝さんについての感情的なものというのは、年寄りだけなのかも知れませんが、京都大学だとか西田哲学がどうだというような雰囲気ということであって、国の方向をどう考えるかということとはまた別の問題です。
大村泰樹(中央学院大学法学部教授)
法政大学で20年近くアジア法を担当してまいりました。それぞれの先生にこの機会でしか質問できないことをお伺いします。
朱さんに。中国はこれまで大きな憲法変動を4度経験してきたかと思います。82年憲法の改革というのは、一番最初の54年憲法に立ち戻るという傾向があるとみていいのでしょうか。
呉さんに。韓国の地域主義の問題がいまだにわたしの頭に残っています。光州事件で、頭に白い鉢巻を巻き、真っ白な死に装束で、光州市民と共に戦うのだと、一号線をトラックに乗っていった人々をいまだに覚えています。その人たちはいま生きているのだろうかと思うこともあります。わたしは関西出身で韓国・朝鮮系の友人も多いのですが、その内の一人は行方不明になったままです。当時学生で、光州事件に参加した方に「あのときは連帯感があったのでは」と話を聞くと、「全羅南道のことは、全羅南道の人にしかわからないから」といわれて、ガクッとしたことがある。地方自治法がよりよく地域主義を導いていくのかと思ったが、なかなか難しいような気もしますので、その辺についてのお考えを聞かせていただければ、と思います。
陳さんに。何万人も殺されたという2・28事件があります。その後、台湾に訪れたことが何度かあったのですが、そのとき迎えに来てくれた台湾大学の先生が、あちこちにスパイがいるから気をつけないと、と冗談まじりに言われました。しかし、街の角々に見張りがいたような気がしました。2・28事件という虐殺事件があったにもかかわらず、どうして、二つのグループがうまく、大きな諍いもなく、いまのような流れになってきているのか不思議でしょうがない。何かうまく仲をとりなすようなどんな動きがあったのかということを教えていただければ幸いです。
江橋崇(法政大学法学部 教授)
学会のような雰囲気になってきました。でも、今日は、各国の現代史のタブーを取り上げて、どう思っているのだという真相究明の会ではありませんので、ほどほどにお願いします。今日は、憲法の問題に関して、東北アジアで何を共有すべきか、ということを議論したいのです。それでは、会場からの発言をさらに求めます。
会場参加者(★ご本人の希望により匿名)
朱さんに質問です。憲法の話をするときに、基本的人権ということが気になってくるのですが、中国国内での人権の状況についてお話を伺う機会がある度に、日本での状況とは大きく異なると聞きます。アジアの国々と付き合っていく中で、そのあたりの価値観が違っていると、一緒にやっていくのは非常に困難な面が多々あると思うのですが、どうやっていったらよいのか。お考えがあればお聞かせください。
また、中国の研究者で、海外でウイグル自治区の研究をされていた方が、資料をとりに中国国内にもどった際に行方がわからなくなったというような話を聞いたことがあるのですが、そういった事実について、研究者という立場からどのように受け止められるのか、個人的なご意見を聞かせください。
江橋崇(法政大学法学部教授)
申し訳ありませんが、大村さんの質問もそうですが、データの検証もしようがない個人的な体験に基づいてどう考えているのか、という質問はやめてください。中国人だって、わたしの友人だけを見ても、ゴリゴリの毛沢東主義者から賭け麻雀をやっている商売人など、いろいろな人がいます。多様な人々の中から適当な人を選んで、その人の話によると、という議論を始めれば、右から左まで何でも言えてしまいます。
後藤敏彦(市民立法機構運営委員)
少し視点を変えてみます。環境の問題でも、最近は科学的にいろいろな意見があり、それゆえにアメリカが京都議定書から抜けてしまうというようなことになっています。しかし、温暖化の問題は、今後5年から10年の取り組みが決定的に重要、クリティカルであるということが、科学的知見における現状での大方の認識ではないかと理解しています。また、人権や憲法の議論も重要ですが、今後中国がものすごい勢いで発展すると、その際には、格差も拡大する可能性もあります。ペンタゴンなどは2025年ごろには、食糧問題や温暖化問題などで、中国は内戦状況になる、というレポートを出しています。こういった環境問題について、それぞれの国のリーダー層がどのように考えているのか、少しコメントをお聞かせください。
江橋崇(法政大学法学部教授)
今の話ももう少し制度的な話にしたいと思います。いま日本では、環境権を憲法に入れるべきだという意見がある一方、憲法第13条の幸福追求権に含まれているから憲法改正しなくてもいいという話もあります。東北アジアから、日本の環境問題についての取り組みを見ながら、憲法に環境権が書いていないということをどのように考えておいででしょうか。逆に、中国や韓国、台湾では、憲法に環境を入れるとよくなるとお考えでしょうか。それとも憲法ではなく、法律や計画をお考えでしょうか。
それから女性に対する人権侵害などについて。これについて台湾は、モデルをしっかりと決めて進めています。つまり、環境であれ、女性の人権であれ、外国人の人権であれ、一定のモデル・目標値をつくって、それを憲法にしっかりと書いて実現していくというように考えていらっしゃるのか、あるいは両方の面をもつ日本のように、憲法というのは達成されたことがまとめて書かれているだけだと考えていらっしゃるのでしょうか。
早房長治(地球市民ジャーナリスト工房代表)
朱さんに質問です。先ほどのプレゼンテーションでも触れておられたナショナリズムの問題ですが、中国でナショナリズムが高揚しているのは、中国に行った際に実感しました。他方で、日本でもタカ派が全盛時代で、これも一種のナショナリズムということになります。
ナショナリズムが強くなると、おそらく日中、日韓の問題も解決しにくくなる。東アジアの問題を解決していくために、どうやってナショナリズムを鎮めていくのかということを伺いたいと思います。
次に呉さんに質問です。あまり触れておられなかったように思いますが、韓国では南北統一問題が大変大きなテーマとなり、特に盧武鉉政権においてはそうだと思いますが、それが常に意識されているのでしょうか。つまり、南北統一問題と市民社会、憲法や人権といった問題を考える場合に、それがどういう関係にあるのでしょうか。韓国人自身の問題として、市民社会の問題と南北統一の問題がどういう接点をもっているのか、ご自身の考えでもよいし、知識人の間で考えられていることでも結構です。お聞かせいただければ幸いです。
陳志明(法政大学法学部兼任講師)
まず大村さんのご質問で、2・28事件があったにも関わらず、どうして外省人と本省人が融和する方向へ向かっていったのかということについてです。やはり背景にあるのは、外省人が実際に台湾に住み続けた結果、大陸に戻れなくなったということを受け入れざるを得なくなったということです。
もう一つは、台湾の国際的な地位の低下によって、本省人に政治参加を認めざるを得なくなったということです。これによって本省人の発言力が高まり、両者が対等な立場に立つことで初めて双方が融和する方向に向かっていき、これが李登輝時代の新台湾人という考え方につながっていったわけです。
しかし、現在再び本省人と外省人の対立が出てきているというのは、中国との関係においてどのように付き合っていくのかという問題で、両者の違いが出ているということでありまして、かつてのような対立と現在の対立は違うものであると言えます。
朱建栄(東洋学園大学教授)※
いまの皆さんの質問はいずれも、これから憲法を考える上での基礎となるものだと考えます。日中韓で現在いろいろな問題を抱えている背景には、相互理解と信頼関係のなさがあります。そのあたりについてもっと相互に理解し合えれば、ここまで大喧嘩せずに済んだと思うのです。
まず、大村さんの質問。中国の82年憲法が建国初期のものに戻ったのではないかとの指摘は、その通りです。文化大革命は行き過ぎで、建国初期に直そうということです。しかし2004年以降の憲法修正は過去に立ち戻るのではなく、時代に応じた変化だと言えます。例えば、私有財産の保護を明記したのは、共産党の規約との矛盾が生じています。労働者階級を支持基盤にして社会を引っ張って行くということが共産党の原理でしたが、いまでは企業家も共産党に入れるように変わりました。今後は90年代以降の社会の変化を踏まえて、憲法を見ていく必要があると思います。
先ほどの女性からの発言について。中国の各地方で様々な人権違反、あるいは基本的人権を尊重しないような事態が起きていることは事実です。中国自身も、マスコミのスクープやインターネットなどで、隠すことができなくなってきました。いま炭鉱事故の報道が増えているが、そうした事故が過去にはなかったわけではなく、情報が流れていなかっただけで、かつてはもっとありました。75年のダム崩壊で7万人死んだことも、外部に知られずに隠されていました。これは中国が乗り越えなければならない事態です。
しかし江橋さんもお話しになったが、一部の未確認情報を元に、これが中国の姿だという議論は問題だと思います。中国でも社会的な地位が高いからといって、罪を犯しても釈放されるということは、一般的ではありません。現在では、地方の知事クラスであっても逮捕される時代です。ウイグル研究者の問題については、わたしは聞いたことはありません。
次に環境問題について。いま中国はようやく環境を重視し始めました。しかしだからと言って、中国で環境問題を憲法の中に入れようとの発想はあるのかというと、まだそこまでいっていません。それぞれの国の民主化のプロセス、環境問題への意識、社会発展の段階で、意識は徐々に変わっていくということを併せて考えなければなりません。いまの中国では、環境の問題意識はようやく目覚めたばかりです。たとえば80年代、訪中した日本の学者の公害問題についてのアドバイスなどに対し、「先進国は先に発展し豊かになった。これからわが国が発展しようとするときに、公害対策をやれというのはどういうことか」と中国の学者は反発しました。しかし、当時の中国社会においては、仕方のない反応だったと思います。
いまの中国社会は、ナショナリズムも含め、社会の段階、経済発展、市民中間層の拡大ということで比較すれば、日本の60年代から70年代の動きに極めて似ています。昨年の反日デモの様子を、日本は繰り返し放送しましたが、99年のアメリカによるユーゴの中国大使館への空爆に対する反米デモは、今回の5倍、10倍の規模でした。さらに、反日デモと同時期に、上海の隣の浙江省にある東陽市では、企業の公害問題について1万人以上の市民が集まり、デモを行なっていました。企業が役人に賄賂を渡し、公害を容認していたことに、これまでの市民は我慢していたが、いまの市民は我慢せずに、立ち上がり、企業を囲んで抗議するようになったのです。
つまり中国の社会はものすごく変化しています。東京オリンピックの頃の日本のナショナリズムに似ているかもしれない。何もなかった時代から、経済発展で少し余裕が出てきたときに自己主張が出てくる。日本も高度経済成長に入ってから、消費者運動、学園紛争、安保闘争が出てきました。しかしいまの日本のナショナリズムは、その時期のものとは明らかに違い、バブル以降の閉塞感や急速な隣国の台頭に対するライバル意識といった理性的とは思えないナショナリズムだと思います。しかし両者がもう少し発展し、冷静になって自信を取り戻し、相互理解を進めてゆけば、解消されると考えています。
北京では2008年にオリンピックが開かれます。そこで日本の選手に罵声を浴びせれば、国際社会から非難を浴びるのは中国です。現在、北京や上海の大学では、昨年の反日デモの映像を編集し、学生に見せています。こういう破壊的なやり方で「愛国」を叫んでみても、結果的には中国のイメージダウンにつながり、中国が必要とする外資の導入にもマイナスとなるという教育を進めています。昨年10月に小泉首相が靖国神社に行ったときにも、中国の市民はわりと冷静でした。こういう形で、中国も克服できると思うし、日本も克服できると思います。
最後に、70年代末に、日本の研究者が、日本の憲法について中国に伝えようとしました。これが重要な役割を果たしたのと同じように、日本人ももっと自信を持って欲しいのです。いまの中国は経済発展を続けていますが、日本における60年代の社会問題の解決の手法を必要としています。90年代に入り、中国はアメリカを目指しました。しかし、ここ2、3年で、アメリカ型の消費・浪費社会に中国は耐えられないということで、日本を目指そうとしているのです。環境という全人類の共通認識を持った上で、中国も憲法や法律の問題について取り組みながら、一緒に努力していく必要があるのではないかと考えています。
陳志明(法政大学法学部兼任講師)
先ほどの続きです。台湾でも、環境に対する認識・関心は大変高いです。憲法においても修正条文第10条の中に環境に関する規定があります。そして、本文第2章の人民の権利義務や第13章の基本国策、修正条文第10条に人権に関する規定があります。
また現在行われている憲法修正の議論の中で、国家人権委員会を創ろうという議論もあります。これは2000年に陳水扁さんが総統に就任した時の演説で「人権委員会を創る」と言っていたもので、憲法修正の議論をする中で具体的なものとして上がってくる可能性があります。
台湾の憲法の特質として、中国との関わりにおいて、主権という問題に踏み込むことができないということがあります。つまりとりあえず主権を棚上げにしつつ、それ以外について憲法修正を進めてきたわけです。これは言ってみれば主権なき憲法論ということで、日本の憲法改正においても、市民主導の憲法を考える際には一つの示唆に富むのではないかと思います。
修正の手法については、台湾では全文改正ではなく、修正条文をくっつける形を採っています。これも日本の憲法改正を考える上で参考になるのではないかと考えています。
江橋崇(法政大学法学部教授)
いま国家人権委員会の話が出ました。韓国でも国家人権委員会をつくってがんばっておられます。今度国連で人権理事会が設置されることになり、日本国政府もさっそく立候補しています。しかしその際に、人権理事国にふさわしいことをアピールするための演説をしなければならないが、日本には国家人権委員会が存在していません。そんな中、台湾でも人権委員会をつくろうとしていることは面白い話だと思いました。
呉在一(全南大学校教授)
それでは簡単に申し上げます。まず、大村さんの質問ですが、それは光州に限らず韓国政治全体の問題です。第一野党であるハンナラ党は、全国では40%前後の支持率ですが、光州あたりでは5%を越えたことがありません。与党であるウリ党も、少数野党である民主党も、労働党も、ハンナラ党は光州では勝てないと考えています。だから、決戦の場は首都圏になります。ハンナラ党の首脳も、これを乗り越えなければ政権を握れないという認識です。
光州事件の真相究明はまだなされていません。光州あたりでのハンナラ党の低い支持率も光州事件と関係しています。
歴史的な事件を今の視点から見ることが、果たして妥当であるかどうか。一般の市民がそう考えてもいいかも知りませんが、指導者層がそうではいけません。日本政府は、北朝鮮による拉致事件を大きく取り上げています。もちろん、拉致とか強制連行が悪いことは確かなことであります。しかし、日本帝国主義による従軍慰安婦など大勢の朝鮮人の強制連行に対しての、日本政府のこの間の立場は、どうだったかを一応考えた上で、非難した方がいいではないでしょうか。指導者たちの事実に基づいての正しい歴史認識とバランスのとれた均衡感覚が求められていると思います。
近代の民主主義国家における主権は、国民にあります。主権在民ということについては、誰もが認めています。そのためには、権力は人民の近いところに置かれなければならないし、また人民によって統制されなければなりません。人民による統制がしやすい政治システムの一つが、地方自治制度です。地方自治の実施によって、地域自治が根づかせることこそ、民主主義をより堅固にするはずです。従いまして、韓日の憲法学者や、市民社会はお互いに手を結んで、東アジアにおける民主主義の堅固化のために、憲法上の地方自治の強化策に共同で努力していかなければなりません。
江橋崇(法政大学法学部教授)
憲法学者のお話が出ましたが、わたしが見る限り、韓国の憲法について触れている日本の憲法学者の比較的多数は、韓国の憲法問題に真剣に取り組んで、しっかりとしたデータを提供しようということにはなっていません。韓国の問題、東アジアの問題も分かっている自分が好きというだけのことで、あまり期待しない方が良いかと思います。
憲法の中に地方自治のことをどのように入れるかということについては、市民立憲フォーラムでも議論してきましたので、須田さんの方から一言お願いできないでしょうか。また、地域のローカルパーティで活動している方からもお願いします。
須田春海(市民運動全国センター代表世話人)
地方自治の話のまえに少しだけ、稲さんにお尋ねします。憲法第9条不戦の誓いというのは、大いに結構だと思っています。しかし、その不戦の誓いの国に、もっとも好戦的で世界最強の軍隊である米軍が駐留しているということをどう考えるか。この両面を同時に考えなければなりません。戦後60年は、不戦の誓いだけでやってきたわけではなく、その日本の領土に、米軍というものが存在し続けています。特にアジアの方がこのことをどう把握しているのでしょうか。
次に、朱さんが帰られたので残念ですが、中国が、いまの党治政治から法治社会に平和的に転換することはできるのか、ということをお聞きしたかった。この問題が、今後この地域において一番大きな問題となってくるかと思います。
最後に、韓国はどこからどう見ても行政国家です。その行政国家が大統領制を採ってしまったことに一つの悲劇があり、そこにITをからめ直接民主制的雰囲気が入ってきたことで、様々なゆがみが出てきています。
そしてその中でも一番の課題は地方自治です。わたしは地域の自治と言いますが、市民の自治を地域からどのようにつくっていくか、ということになります。日本の憲法は一応地方自治を保障している形をとっていますが、実質的には、明治以降の行政権が連続しています。この明治から連続している行政権のもっとも悪い部分が、韓国の行政法にも引き継がれています。今後韓国の市民は、このことと格闘することになります。わたしたちが1960年代からやってきた自治体改革運動を、もっと強烈に、いろいろな形でやっていかなければなりません。わたしの『市民自治体』という本も参考に読んでいただければ幸いです。
中村映子(東京・生活者ネットワーク 事務局長)
韓国では、女性議員を育てるためのシステムをしっかりとつくっていて、女性議員の割合においても、民主主義の実践をどんどん進めているように思います。日本での問題点や先行事例なども多く、そういったことをうまく取り入れているようです。ただ、あまりにも急速に進んでいるので、後から問題が出てくるのではないかとも心配しています。地方自治については、日本の憲法では「地方自治の本旨」という説明しづらい文言となっており、地方自治法が機能しにくい矛盾があります。韓国の地方自治についてのあり方、日本と比べてどのようになっているのかお聞きかせください。
友澤ゆみ子(神奈川ネットワーク運動)
ローカルパーティで活動していく中で、憲法というのは、すごく遠い存在でした。市民立憲フォーラムにも参加しながら、どのように市民は憲法と関われるのかと考えています。各国ともそれぞれ憲法を変えてきた歴史があります。一方日本では、ずっと「変えてはいけない」、「変えなければならない」という議論をしてきた、ということで改めて違いを感じると共に、やはりわたしたちはもっと自由に法律や憲法を論じてゆかなければ、市民社会は強くなっていかないということを感じました。そこで、憲法を変えてきた国において、市民社会と憲法の関係、皆さんや市民社会の努力や何か仕組みなどがあったのかなどについてお伺いできればと思います。
※印…分析 市民立憲フォーラム事務局
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シンポジウム目次 > 2006年> 第1部 質疑応答・議論
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