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平和
平 和
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【提案骨子】
1.憲法第二章「戦争の放棄」の条文を改変することはしない。
2.「国際平和構築基本法」を、「わたしたち市民」の意思として以下の内容で制定する。
a 正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力
による威嚇又は武力の行使は、永久に放棄する。
b 陸海空軍その他の戦力を保持することを否定する。日本国の交戦権は、認めない。
c 国の内外を問わず、侵略、内戦・地域紛争などに伴う暴虐、人道に反する虐待、飢
餓などからすべての人びとを守り、人としての誇りを持って平和のうちに生存するこ
とを保障(「人間の安全保障」)する権利を有する。
d 侵略行為や内外さまざまな勢力によるテロなどから生命、財産、尊厳を自衛するの
に必要な実力(自衛力)の保持・行使を日本国政府に信託する。自衛力を担う部隊
の装備や編成・配置などは、周辺諸国の軍事力増強を触発するようなものであって
はならない。核兵器などの大量破壊兵器とその運搬手段は、保有しない(#1)。
e 国連決議など国際社会の明確な合意に基づく人道的介入・集団安全保障措置に、
武力を行使しない前提で参加することとし、平和構築に必要な実力を備えた部隊(「
国際平和構築隊」#2)の保持・行使を日本国政府に信託する。
【提案理由・背景説明】
1.日本国憲法は、「パリ不戦条約」(1928年)や国連憲章から平和遵守の精神を学んで「戦争の放棄」を誓い、かつ軍隊を持たないことを、世界各国に先駆けて宣言し明記している。しかし現実には、戦争を放棄し軍隊を持たないとした国でありながら、自衛の名目で「軍隊」並みの組織が日常的に存在し、かつ外国の軍隊が半世紀以上にわたって駐留し続けている。憲法の条文と実態との間には、著しい乖離がある。
このことに対して、日本の市民の多くが、<憲法9条・自衛隊の存在・日米同盟>を支持している現実を踏まえると、以下の3つの処し方が考えられる。
【1】憲法第9条を改正して自衛権を明記し、通常の軍隊を持つ。
【2】憲法第9条を改正して自衛権を明記するが、軍隊は持たず自衛の実力部隊の範
囲にとどめる。
【3】現行憲法第9条の表記は変えず、平和的生存権(「人間の安全保障」)を国内的
に確保するために最小限の実力部隊を持つ。
わたしたちの選択は【3】である。その理由は―
先ず、自分たちの安全を考えることに関連して、自分たちが他国からどう見られているかを冷静に判断しなければならない。「戦争の放棄」が可能な国際環境は、相互の信頼感によってのみ育まれるからである。この観点からすると、
【1】は、戦後60年の非戦の精神の放棄につながり、近隣諸国の強い反発とこれに基づく対抗的な軍備増強を生むことになろう。即ち日本の安全に対し、逆効果を持つ。
【2】は、現実的な選択と、一応考えられる。しかしこの改訂でも、「自存・自衛」の名目による大日本帝国の侵略・膨張政策の犠牲になったアジア諸国の不信感を免れることは出来まい。実力部隊による「自衛」が公然と認知されれば、アジア諸国の警戒感は高まるだろう。さらに、北朝鮮問題・台湾問題など難問を抱える東アジアに、軍拡の連鎖反応を起こす確率が高い。
そこで、当面の選択としては【3】となる。
2.戦後憲法の眼目である「戦争の放棄」を、わたしたち市民がこの60年間に、日本国憲法の下で積み重ねてきた平和への実践の成果を踏まえ、誰にもわかりやすい市民の言葉で確認する。現憲法の条文は、「戦争の放棄」についても、また国際社会の「平和構築」に関しても、あいまいで不十分なものである。同時に「9条」は、日本が侵略行為を二度と犯すことはないという近隣アジア諸国への「公約」を表明したものである。用語に難点、不十分さがあるとしても、その改変が周辺諸国にどのようなインパクトを与えるかについて見極めることなしに、「改正」するべきではない。
3.提案する「国際平和構築基本法」各項の主語は、全て「わたしたち市民」である。前段、aとbで、「戦争の放棄」(「しない平和」)を再確認する。このことを、現憲法9条1、2項を引き写すかたちで盛り込んでいる。同法aは、現憲法9条1項から、「国際紛争を解決する手段としては、」という、自衛の名で行われる戦争までは放棄していないことをさりげなく主張した“業界用語”を削除。また同bは、「軍隊を持たない」ことにつき一切のまぎらわしさを残すことのないよう、現憲法9条2項冒頭の「前項の目的を達するため、」を削除したものである。
4.この「再確認」は、当然、日米安全保障条約に基づく米国との軍事同盟関係を再検討することに繋がる。しかし、この提案のなかでは、「再検討」を前提としつつ、差し当たりは同盟関係を存続させることを含みとしている。即ち「安保条約破棄」といった提案には至っていない。なぜならば、同盟関係の解消が「自主防衛」への強い誘因となり、核兵器を含めた「自衛力の拡大」を求める国内の声を刺激して、結果的には上記の選択のうち、【2】に踏み込むことなると懸念するからである。
ただ、「日本国の安全保障」を求めるための米軍基地の存在が、沖縄県民など基地周辺住民の「人間の安全保障」を著しく損なっている現実を改めていくことに限っても、日米同盟の再検討は急務である。一つには、日本近隣の地域情勢の安定をめざして、対中、対韓、さらに北朝鮮との間で友好関係の増進に努めるべきであろう。さらに、そうした二国間同盟を集約するかたちで、懸案の「東アジア地域安全保障機構」を、ロシアやモンゴルも加えて構築することが考えられよう。欧州共同体(EU)並みの「東アジア共同体」の実現を目指す「サミット」が、2005年秋に開催されるに至った情勢に呼応して、東アジアにおける多角的安全保障の機構作りが、日米軍事同盟と平和憲法との矛盾を克服していく方途として、本格的に検討されねばなるまい。
5.「平和憲法」によって「平和」が保障されるわけではない。「戦争の放棄」は、「護憲・平和」をお題目のように唱えることとは大きく異なる。「戦争の放棄」のためには、なによりも戦争をしないで済む国際環境を用心深く構築し、維持しなければならない。外交、経済協力、人的・文化交流など、軍事力以外の全ての手段を駆使して戦争の危険を封じ込めようという決意と表裏一体となった、わたしたち市民とその国家の賭けである。この賭けは、戦死していった兵士たちと、広島、長崎への原爆や東京、大阪など全国各地で空襲を受けた非戦闘員市民、さらには日本軍の犠牲になった外国の人びとも合わせた、すべての失われた命に代えて、地上に住む全ての人びとに恒久的平和への希望と勇気を与えるものでなければならない。
6.わたしたち市民は、戦前の日本に対する「反省」に閉じこもった「『しない』平和」に止まることなく、人びとが遍く享受すべき「平和的生存」を、市民の権利として保障(「人間の安全保障」)することを「国際平和構築基本法」cで謳う。この権利の行使は、自国の領域に限られるものではない。世界の全てにおいて積極的に「平和を構築する」ことを目指し、「『する』平和」の活動に参画していく。「国際平和構築基本法」は、dで市民の権利としての「自衛」に関して、またeでは、同じく市民の権利として平和的生存権を国際的に確立し「人間の安全保障」を世界規模で実現することに関して、必要な実力の保持を日本国政府に信託することを謳う。
7.「平和憲法」の下、われわれの税金で組織された部隊が、海外に出征して外国の人びとを殺傷することは一度もなかったという戦後60年の実績を、今後も守っていかねばならない。同じく、日本の企業が生産した武器・弾薬が、外国に直接輸出されて人の命を損なうようなことはなかったという実績も、大事に守っていかねばならない。米国との間でミサイル防衛システムの共同開発・生産が進められようとしている機に乗じて、「武器輸出禁止三原則」の骨抜きを図ろうとする動きがある。「死の商人」の跳梁を許さずにきた日本の経済界の良識が試されている。
8.日本において「自衛力」を発動しなければならないような近隣国家による侵略が起きる可能性は、差し当たり少ない。しかし、大量破壊兵器の使用を含む国際的大規模テロの危険は、否定できない。国際社会の安全に対する今日の脅威は、どこかの国による「侵略」から離れて、正体不明の国際組織による理由不明の大規模テロ行為である。米国は、2001/9/11テロの痛撃をイラクに直結させ、「先制攻撃による自衛」で対処することを一方的に決め、実行した。この「先制攻撃」による防御は、かつてイスラエルがイラクの“核開発施設”に対して敢行し米国を含めた世界中の非難を浴びたことがある。しかしイラク戦争を経て、国連の集団安全保障の有効性を確保しようとする議論のなかにも現れている(#3)。「攻撃は最大の防御」の現代版として、各国の防衛政策に取り込まれていくだろう。日本も例外ではなく、「北の脅威」に対処する現実的方策として、国防族議員や防衛政策担当官僚が「攻撃されるまで待つわけにはいかない」と公然と発言するに至っている。「戦争の放棄」に反することのない「自衛力の限界」は、この「先制防御」についての厳格・冷静な考察を踏まえたものでなければならなくなっている。
9.他方、「大規模国際テロ」に一国で対処することは不可能だとする「常識」が、国際社会に広がりつつある。その結果、一国の「自衛」の限界を克服するものとして国連の集団安全保障機能に対する期待がこれまで以上に強まっていく可能性もある。この場合もまた、「海外で武力行使はしない」(「基本法」e)こととの関連で、日本の「国際平和構築隊」が海外で行使する「実力」と「先制防御」との関わりを考察せねばならないことになろう。
10.現状では、集団安全保障のための具体的行動に関して、国連は十分には機能していない。その結果、事実上米国が“世界の警察官”としてふるまっていること、日本国は、安保同盟の連帯の証しをたてるかたちでこれに追従しているという現実に留意しなければならない。
11.従来からのいわゆる「改憲論」は、憲法の条文改訂に至らない政府(内閣法制局)見解の修正を含めて、いみじくも「集団的自衛権行使の正当化」に集中している。即ち、日本に住む人びとの平和・安全の保障に関する直接の必要に発するものではない。他方で、日米安保同盟を「国際公共財」として拡散的に定義し直すことを、外務官僚やその周辺のいわゆる「国際政治学者」がすすめている。こうした流れに沿った「改憲」が、自衛の逸脱につながり、日本の平和・安全の基礎となる周辺諸国との関係を悪化させることを、強く警戒すべきであろう。
12.「集団的自衛権の行使」は、米国との“共同作戦解禁”につながる。歴代の自民党政権と内閣法制局の判断通り、「戦争の放棄」に反するものとして否定すべきである。
―――――
#1 「わたしたち市民」の平和的生存に必要な実力の保持・行使を政府に信託するという限りで、日本国の自衛力の保持・行使は、「戦争の放棄」に反するものではない。
#2 「国際平和構築隊」のかなりの部分が、現自衛隊員の兼務・出向によって構成されることは、妨げない。しかし、外地での活動をする部隊は、「自衛」のための部隊とははっきり異なる別組織として創設されねばならない。
#3 アナン国連事務総長が、2005年3月20日に公表した国連改革に関する勧告は、「武力行使原則」の項で、「ジェノサイド(集団殺害)や民族浄化、人道に対する罪を含め、平和と安全を維持するための予防的行使を含めた武力行使権限の再確認」に言及している。
(担当:安藤博)
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